台湾の総統はなぜ、国民の直接投票によって選ばれるのか――。その仕組みに強くこだわった李登輝さんの想いを、日本人秘書である早川友久さんが明かします。
来年1月の総統選挙へ向け、与野党とも公認の候補者選びがいよいよ激化してきた。
民進党は現職の蔡英文総統と頼清徳前行政院長が予備選に出馬しており、いまだ調整がついていない。
国民党も、鴻海精密工業の郭台銘氏が出馬宣言したり、韓国瑜高雄市長が「党からの指名があれば」などと含みをもたせる発言をするなど、こちらも混迷模様だ。
まだ出馬が不透明な柯文哲台北市長も、水面下では出馬準備をしていると噂されており、少なくともこの混乱した状況はもうしばらく続きそうだ。
総統選挙へ向け、各党が候補者選びにしのぎを削る。こうした状況を李登輝はどのように捉えているのだろう。
台湾が明確に中国とは別個の存在であることを守り続けてくれる候補者にこそ台湾総統の座に就いてもらいたいとは願いつつも、各陣営が侃々諤々の議論の末に候補者を絞り出す制度が確立されたことに、台湾の民主化を進めた老政治家は満足しているのではなかろうか。
次期総統候補が語った「李登輝の教え」
先日、日本を訪問し、首相経験者や多くの国会議員らと面会を重ねたと報じられた頼清徳氏だが、頼氏は「最高指導者は孤独だ。李登輝総統も、それはまるで観音山の頂上にいるようなものだと言っている。だからこそ、何かを決断するときに縋ることの出来る『強い信念』が必要だ、と教えてもらった」というエピソードを折々に話したと聞いている。
この「観音山」のストーリーは補足が必要だろう。
観音山とは、淡水の対岸である八里にある山のことだ。日本時代は「淡水富士」とも呼ばれ、淡水の夕陽とともにその美しさが讃えられ、「台湾八景」のひとつにも数えられた。余談だが、李登輝事務所はこの観音山を真正面に捉える紅樹林にあって、窓からはその雄姿を拝むことができる。
李登輝は、総統に就任して間もなく、この観音山へ家族とともにハイキングに出かけた。当時まだ幼かった孫娘も一緒だったというから、それほどきつい勾配ではなかったはずだ。しかし、600メートルちょっと、という標高であっても、頂上までたどり着いてみると、その場は予想以上に急峻だった。四方に寄りかかれるものが何もなく、その場所に立った李登輝は、恐怖さえ感じたという。
同時に「総統の地位はこの山頂のようなものだ。周りに寄りかかることの出来るものが何もないとは、すなわち誰にも縋ることが出来ないということだ。頼れるのは信仰だけだ」と悟ったという。
李登輝は常々、指導者たるもの信仰を持たなければならないと説く。李登輝の場合はそれがキリスト教だったが、信仰でなければ「強い信念」でもよいという。要は、孤独のなかで何らかの決断を迫られた場合でも、縋ることの出来る精神的支柱を自分の心のなかに用意しておかなければならないということだ。こうした最高指導者としての必要な心構えが、民進党内で予備選を戦う頼氏にとって大きな示唆となったのだろう。
この日、孫娘を後ろから抱きかかえた李登輝と家族の写真が残っている。この場で得た感慨を残そうとしたのだろうか、この写真をもとにした絵をスペイン留学から戻った画家の呉炫三氏に描いてもらったが、李登輝夫人によると、構図の上で「邪魔だから」と、李登輝と孫娘以外の家族は削られてしまった、と苦笑いする。
このエピソードからは、台湾の最高指導者として、党内の抵抗勢力を抑え、どんな批判もかえりみず台湾の民主化への信念を貫き通した李登輝の強さが垣間見えるだろう。