筑波大学附属駒場中学校・高等学校(以下、筑駒)は東大合格率不動のNo.1校として名高い。しかし、そのルーツが農学校とは、今や忘れられがちだ。だが、東大駒場キャンパス自体、元は駒場農学校の敷地にある。農はすべての力の出ずる源泉。同校伝統の水田学習と、関連部活を取材するにつけ、そう感じざるを得なかった。
田植えは東京教育大農学部の元敷地の駒場野公園内に、筑駒が所有する「ケルネル田圃」で行われる。これは日本の土壌や肥料研究において多大な功績を残したお雇い外国人、オスカル・ケルネルが駒場農学校在職中に作らせた実習用の田んぼ。今日までその維持を任されているのが筑駒生である。
駒場東大前駅周辺といえば、渋谷までわずか2駅とはいえ、およそ牧歌的な光景が広がる一帯。筑駒の源流、1874年設立の駒場農学校は改称を重ね、後の東大農学部となるが、広大な敷地を本郷の旧制第一高等学校と交換。やはり敷地内にあった農学部附属農業教員養成所が農業教育専門学校となって、現在の駒場野公園の場所に残り、後に東京教育大学農学部に転ずるという経緯がある。
そして、筑駒は1947年、当時の東京農業教育専門学校附属中学校として創立。以来、現在は中1・高1生が主に取り組む、育苗に始まる水田学習を年間通じて実施している。今なお新1年生がそれぞれ、“農への構え”を入学時にまず叩き込まれるのだ。
〝農業ごっこ〟ではない
駒場農学校は札幌農学校とともに、日本の近代農学の発展を担った拠点。だから、この田んぼこそ筑駒のプライドだ。6月初旬の土曜、午前中の4時間の前半は中1、後半は高1が担う田植えに同行したが、長い伝統に培われた、まさに探究的な活動だと感じ入る他なかった。
「一日農家の手伝いをして戻ってくる学校は多いと思いますが、それでは単なるイベントで終わってしまう。稲作は時間をかけた大変な営為なんです」と指導担当の技術科・渡邉隆昌教諭も苦笑混じりに語った後、いくぶん胸を張って、こうも強調する。
「耕運機が必要な代掻きだけは、さすがに専門家の手を借りますが、何十年もの間、栃木の農家の方にお願いしています。それ以外の施肥、田植え、除草、防虫防鳥対策、稲刈り、稲架がけ、脱穀、籾摺りし玄米にするまで全部生徒の作業です。また、有機農法が原則ながら、収量にもこだわります」
そうやって編み出された黄金律が、25cm間隔にコブをつけたロープを垂直に渡し、生徒らが一斉かつ均等に苗を植えていく手法だ。前夜の雨で水嵩が増し、膝まで泥水に浸かっていても、なんとか真っすぐ植えられるのも、そのおかげだ。
確かにここには“農業ごっこ”はない。自然農法を守り、生産性を上げることも同時に重視する点でも、まさに現代の農学が求められる課題を、生徒たちは実感を持って経験している。それが将来は東大に進み、必ずしも理系を専攻するわけでもない生徒であっても。
筑駒は一貫校だが、中学で3クラス分120名、高校で1クラス分40名を入学させる。それも「ちょうどいいバランス」と渡邉教諭。高校入学生がいる以上、中学から入った生徒も再度、稲作に取り組むわけだ。入学者の1割はこの水田学習に憧れて入るという。高1水田委員の山谷晃生君は中学入学組だが、3年間があっという間だったと感慨深げだ。
「いまや各界で活躍する諸先輩方も、ここで泥まみれになってきた。頑張れるのは、やはり黄金色に実った稲穂を眺めるのが嬉しいからです。1人ではできなくても、みんなでならできる。これが後輩に脈々と受け継がれていくんだと、現場に来てみて感じます」
山谷君は生物部所属。部分的に囲われた一画で、前記の黄金律とは条間の密度を変え、苗を植えてみる実験もしていた。しかし、泥田を前にしていれば、誰だってはしゃぎたくなる。中には「泥レス」で泥まみれになる生徒も出てくる。
ところが、植えたばかりの稲に被害が及ぼうものなら、水田委員から「お前たちはともかく、稲は替えが利かないぞ!」と発破もかかる。眼鏡をかけた、いかにも秀才風の生徒が多いのに、意外と骨っぽいのには驚かされる。
高校から入学した齋藤駆君は、都内の国立大学附属中出身。中2で農業体験も経てきたが、「こちらのほうが普段表せない自分を素直に出せる」と、顔に付いた泥の洗礼を拭いつつ語った。
「あちらはもっと淡々とこなしていました。誰もこちらみたいに羽目を外さない。共学だと出しゃばったらダメなんだと思った。高校から入り、最初は友だちもいなかったけど、寂しいと思う時期は1ヶ月もなかった。5月には校外学習もあって、そこで一気にこの学校の気風に染まった感じですね」
齋藤君にとっても、筑駒での田植えは楽しみであった。そうした通過儀礼的な意味合いも当然、この稲作にはある。ただ、農耕という日本人、いや人類の根幹を肌身で覚えさせていく点で、筑駒ほど徹底した教育を施す学び舎はない。