小渕氏は臨時代理指名できたのか
「平成おじさん」こと、小渕恵三首相が脳梗塞で倒れたのは在職2年になろうとしていた2000(平成12)年4月2日未明。病院に緊急搬送され集中治療室で手当てを受けたが、意識が戻らないまま5月14日死去した。
首相が倒れた翌日、当時官房長官だった青木幹雄氏が首相臨時代理に就いたが、内閣法では、臨時代理はあらかじめ首相が指名することになっているため、倒れた小渕氏が指名することができたのかーとの疑念が指摘された。
小渕氏は再起不能とみられたため、青木臨時代理のもと、内閣総辞職、森喜朗自民党幹事長が後継と決まったが、青木、森氏を含む数人での話し合いによったため、「密室の首相選び」として野党は正当性への疑義が提起された。
森内閣は、首相に事故があった時に備え、内閣法にもとづいて、あらかじめ5人の閣僚を順位をつけて指定、その後、その方式が定着した。
小渕氏が倒れた当時、公明党とともに連立政権の一翼を担っていた自由党(当時)との合流問題がこじれ、政局運営の障害になっていた。体調不良に陥る数時間前、自由党の小沢一郎党首(同)と会談、激論したことが原因のひとつといわれた。この会談後、記者団の前に姿を現した首相は冒頭、10秒ほど言葉に詰まり、周囲をハッとさせたからだ。
少し前から「言葉が出ないことがある」と漏らしていたといわれ、早く診察を受けていたらと悔やまれた。
レーガン狙撃、国務長官が〝勇み足〟
病気ではないが、レーガン元米大統領が撃たれた事件も忘れることができない。
1981年3月、その年の1月に就任したばかりのレーガン大統領は、ワシントン市内での講演を終え、会場のホテルを出たところを拳銃で胸を撃たれた。
大統領はすぐに近くの病院に搬送され、緊急手術を受けたが、医師団に「君たちは共和党員だろうね」と冗談を飛ばし、かけつけたナンシー夫人にも「弾をよけそこねたよ」と笑って見せた。元俳優の大統領らしく、苦痛のなかでもユーモアを忘れない勇気は国民をうならせた。
物議をかもしたのは、大統領の手術中、ヘイグ国務長官(当時)が突然、ホワイトハウスに乗り込み、「いまから私がここを指揮する」と大声で宣言したことだった。ブッシュ副大統領(後の大統領)が事件当時、ワシントンを離れていたため、正副大統領の不在によって緊急時の対応が遅れることを恐れたためといわれる。
しかし、大統領の職務継承順位は副大統領(上院議長を兼任)に次いで下院議長、上院仮議長とあって、国務長官はその次であり、ヘイグ氏はこの序列を無視したと批判された。氏は後に、「大統領の継承のことを意識したのではなく、行政府を誰が指揮するかをいっただけだ」ーと弁明したが、〝勇み足〟は明らかだった。
レーガン大統領は順調に回復、わずか3週間後に復帰した。撃たれたとき、ジェームズ・ブレイディ報道官も流れ弾で頭部を負傷、職務遂行が困難になったが、レーガン氏は、辞職させるのは忍びないと感じたのか、任期終了まで8年近く、報道官のポストにとどめた。実務は副報道官に代行させた。
犯人は、女優のジュディ・フォスターにあこがれる元テキサス工科大学の学生で、彼女の気を引くために事件を起こしたと供述、精神異常と診断され、精神病院に収容された。