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2020年4月16日

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崔 碩栄 (チェ・ソギョン)

ジャーナリスト

1972年韓国ソウル生まれ。韓国の大学で日本学を専攻し、1999年渡日。関東地方の国立大学で教育学修士号を取得。日本のミュージカル劇団、IT会社などで日韓の橋渡しをする業務に従事する。現在、フリーライターとして活動、日本に関する紹介記事を中心に雑誌などに寄稿。著書に『韓国人が書いた 韓国で行われている「反日教育」の実態』(彩図社刊)、『「反日モンスター」はこうして作られた-狂暴化する韓国人の心の中の怪物〈ケムル〉』(講談社刊)がある。

 日本の国民的芸人、志村けんさん(以下敬称略)が亡くなった。コロナウイルス感染症がもたらした唐突な訃報に日本全体がショックを隠し切れず、悲しみに沈んだ。志村けんの死が伝えられると日本のTVでは彼を追悼する特別番組が次々と放送され、彼の芸人としての生きざまと共に、彼の若手時代から現在に至るまでの様々な活躍、コントが紹介された。ユーチューブでも改めて若手時代の志村けんのコントに注目が集まった。

釜山港を望む市街地(J. Park/gettyimages)

 ところで、それらの昔の映像を見ていて私の中にふと湧き上がってきた感情があった。それは「懐かしさ」のような気持ちだ。

 しかし、考えてみるとそれは不思議なことではないか。志村けんが若い頃、いくつもの番組で毎週コントを届けていた頃、私は韓国にいたし、その頃の作品はこれまでほとんど見たことがなかったからだ。私がなぜ「懐かしさ」を感じたのか? よくよく考えてみてその答えが分かった。それは「志村けんのコント」に対する懐かしさではなく、80年代に私が見ながら育った韓国のお笑い番組との「類似性」に対する懐かしさだったのだ。

志村けんの全盛期に韓国で日本文化は禁止されていた

 私が志村けんという芸人を初めてみたのは、初めて日本にきた1999年だ。その前は名前も聞いたことがなければ、その「存在」すら知らなかった。それは当たり前のことだ。当時、韓国では日本の歌、映画、ドラマ、漫画などの流通、放送が禁止されていた。

 日本の歌や漫画については不法コピーされた海賊版が出回っているものもあり、大きな人気を得たこともあった。音楽はメロディーさえよければ、洋楽やシャンソンを楽しむように歌詞がわからなくても楽しめるコンテンツだったし、ドラゴンボール、北斗の拳ほどの有名漫画になれば、素人の翻訳で作られた粗悪な「海賊版」が流通することもままあった。

 しかし、日本のTV番組となるとそうはいかなかった。80年代後半まで、韓国ではVTRはあまり普及していなかったし、動画に字幕を入れる作業は印刷物である漫画に翻訳を入れるような簡単な作業ではなかった。今でこそ一般人でもパソコンを使って簡単に動画に字幕を入れられる時代になったが、当時は一般人が手軽にできる作業ではなかったのだ。

 稀に字幕の入った日本の有名アニメが出回ることはあったが、あくまでもそれは「劇場版」に限られていた。毎週新しい作品が放送されるテレビ番組に翻訳を入れるためには時間的な余裕もなく、その作業に見合うだけの需要もなかったためだろう、「全く」といっていいほど目にする機会はなかった。志村けんの映像に接するチャンスが全くなかったのだ。

 そんな私が日本に来て初めてテレビで見た志村けんに対する印象は、テレビや劇場でコントを披露する現役芸人というよりは「日本お笑い界の大御所」というイメージだった。若き時代の志村けんを知らなかったからだ。

 それから何カ月が経っただろうか。ある日偶然テレビで見た志村けんの「昔の映像」を見て私は大きな衝撃を受けた。その衝撃は単純な「発見」ではなく、失望とため息が絡み合っている複雑なものだった。その時、私が見た映像はそれから20年ほど前に加藤茶と志村けんが披露した「ヒゲダンス」だ。

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