例えば、1日数回電話をし、生声を届ける。家族にも電話をまわし、なるべく多くの声に触れ、「自分はいろいろな人と関わって生きている」という感覚をもってもらう。子である筆者とだけしゃべっていると話はぼんやりとして堂々巡りになりがちだが、孫の声を聴くと突然覚醒し、声のトーンさえ変わることもある。「ちゃんとしなきゃ」という感情のスイッチが入るのかもしれない。こちらにとっては1日の中の数分の出来事で、多くの雑事に紛れてしまうようなことであっても、家の空気が動かない高齢者にとってはこの電話は大事なイベントに感じられるのだと想像する。
時には、車で家の前に行くこともある。車の中と外、窓越しという状態ではあっても、実際に姿が見えるというのは何よりもリアリティがある。「ちょっと家に上がっていけばいいじゃない」と誘惑してくるが、そこは丁寧に説明をして断る。見えなくなるまでいつまでも手を振っているのを見ると、家族と会えたことの喜びが伝わってくる。また、少なくとも翌日くらいまでは覚えている。「来てくれたものね、車の中にいたけどね」と軽い恨み節も含みつつ思い出す。
スマホが使えない高齢者には、生写真というのも喜ばれる。ずっと孫と会えないと、年齢や体の大きさなどもふと忘れていくようなので、普段の何気ないシーンの写真を定期的に送りつける。「写真が届いたわ!」「ヘルパーさんに見せる」などと言っているので、自分の胸にとどめておくだけでなくコミュニケーションツールとしても利用するようだ。いらない自慢もするだろう。ヘルパーさんには迷惑かもしれないがきっとこらえていただけるだろう。自分と関わりのある人間の日常が手元にあると、会話のコンテンツが生まれる。
母の日にかこつけて、花束も送ってみる。日常生活に困っていないかと心を砕くうちに、食べられるもの、必要なもの、とどんどん必需品をそろえることばかりに注力していく。花や緑を飾るのは、心身共にゆとりがある時だけであり、そうしたものから順に生活から姿を消し、彩りが失われていく。鮮やかな花が届けば、家にいても五感を使うだろう。“生きる”には必要ではなくとも、“生き生き生きる”ためには大事なものがあるのだ。
〝再自粛〟や新たな猛威に備え知恵の蓄積を
現代は、外に出ずとも暮らしが立ち行く世の中だ。医療も買い物も、オンラインなどに置換できるものはどんどん置換するといい。それは今回のようにリアルが立ち行かなくなった時の保険になる。一方で、どうしても「触れ合ってこそ」というものがあり、長い自粛期間はその価値が顕在化する期間でもあると知る。
もうしばらく、「触れ合ってこそ」のできない状況が続く。その空白を何とか埋める努力をしていきながら、「触れないと本当は埋まらないもの」をきちんと覚えておく。それは平時の暮らしの質を高めることや、こちらから触れに行かなければ衰弱してしまう存在を認識することにもつながる。
今回の緊急事態宣言が解かれた後も、世界はすぐには戻らないだろう。数年にわたる繰り返しの自粛が必要とされる予見もある。別のウィルスが猛威を振るうこともあるだろう。その時、もっとも弱い立場の人間をどう守り抜くか。自然災害への対応と同様、試行錯誤しながら知恵をためておきたい。
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