訪問看護の専門家も苦悩に直面
「もう、うつってもいい。来てほしい。さみしい。困っている」と親から訴えられると、こちらの気持ちも揺れる。感染リスクとメンタルの崩壊リスクを天秤にかけ、検温して熱がなければ実家の様子を見に行こうかと思う瞬間もある。ただ、無症状感染者ではないことが証明されない時に感染リスクのあることをする、という判断にはなかなか踏み切れるものではない。こうした事情を抱える人は少なからずいるだろう。筆者の場合は実家も自宅も都内だが、県外から介護に通っている人の場合、県外ナンバーを見ただけで憤慨する人がいるかもしれない状況下で実家に戻ろうとは思い難い。あらゆる方向から選択肢が狭められるといった状態だ。
こうしたピンチに頼るのは、日頃からお世話になっているヘルパーさんや訪問看護の方々となる。彼らは我々よりリスク管理に長けているはずということもあり、親の状況を伝えながらアドバイスをもらったり、様子を聞いたりしている。
その中で、とりわけ訪問看護の難しさも窺い知ることになる。在宅医療、在宅福祉は病院施設のように注目をされていないため、防護服やシールドマスクなどがまったく行き届かず、リスク軽減をどうするか日々苦慮しているとのこと。経営主体も病院などに比べて規模が小さく、感染の確認などの情報伝達も遅く、仮に近隣に感染の疑いが出てもニュースで知るまで分からないこともあるようだ。
また、ひとつの家にさまざまな業種(介護、在宅看護、在宅医療など)が出入りすることから知らず知らずのうちに感染状態がグレーの期間にも接触してしまうことも考えられるという。「行政も病院の対応で手いっぱいなので、情報の透明化やスピーディな伝達など全力で状況改善を試みているところです」という言葉を聞き、ひとつの施設で患者をまとめて管理するのとはまるで違う在宅療養を支える現場の難しさに思いを致す。
と、同時に、専門家たちさえハイリスクな状況で訪問を続けているのが現実だとしたら、「専門家は安全だから行ける、身内が行くとハイリスクだから行かない」というルール付けの意味があいまいに感じられてくる。
専門家の安全な体制づくりを待つ間も、高齢者の暮らしや介護を止めることはできない。在宅医療、在宅福祉を維持するためにも、自分も行かなければならないのではないかと葛藤することになる。
「生(なま)」を届けるという試み
長らく身内と接触できない高齢者には、どんな手を差し伸べるのがいいだろうか。生活自体が崩れていく高齢者を何とか支えようとする時、本人の管理能力がないことを考慮すると、薬管理のロボットや、持ちのよい冷凍の食材や配食サービスなど、とかく「朽ちない」「褪せない」もので生活を成り立たせようと考えがちになる。しかしそれは、高齢者を生かすことにはなれど、生きる力を与えない。
健忘や認知症が進みつつある高齢者は、暮らしのありようによって状態が良くも悪くもなる。今回、母の状態が明らかに悪化しているのは、ウィルスの感染を防ぐという大義が飲み込めないままに孤独になっていく不安が原因ではないかと考えると、必要なのは不安を解消するもののはずだ。そこで、さまざまな手を使って「生(なま)」を届けることを試みている。直接介護ができれば与えられていた刺激を何に置換できるか、という挑戦である。