都市的娯楽と農村的娯楽
我々が手にすることのできる楽しみは、大きく分けると2つあると言える。ひとつは都市的娯楽、もうひとつは農村的娯楽であると考える。
都市的娯楽とは、プロがつくったクオリティのものをお金を払って享受する類のものだ。映画や音楽イベント、レストランでの食事など、自分たちでは生み出し得ないからこそ価値があり、そこに対価を払う。すなわちこれは経済活動に直結する。
農村的娯楽は、自分のつくったそこそこのものを、つくるプロセスも込みで楽しむ。楽しみの自給自足であり、農山漁村では昔から“遊び仕事”などと言う。宣言が出された4月初めは野草が出始める時期で、セリ、ノビル、タラの芽、ミツバなど芽吹く食材を見つけては天ぷらにして舌鼓を打っていた。コロナ自粛に影響されないこうした楽しみは、経済活動とは無縁である。
これらは、どちらかを否定しどちらかを礼賛するようなものではない。両方とも人生を豊かにしてくれる大事な要素だ。
都市的娯楽はお金があれば誰でも受け取れるが、農村的娯楽はちょっとした知識や好奇心が必要となり、それが敷居になっている。たわわになる梅を見て「あ、梅酒つくりたい」と思えればひょいとまたげる程度の敷居だが、その敷居をまたぐことができるとその先には、一生楽しむに困らない世界が広がっている。それは、リアルな経験域の広がりでもあれば、脳内世界の拡張でもある。
今回のコロナ禍では、その敷居の先を覗いた人、ひょいとまたいだ人が増えたのではないか。料理をしなかった人がするようになり、日々の料理しかしなかった人が保存食をつくるようになり、食材は買ってくるものだと疑わなかった人がベランダ菜園を始めた。
筆者は以前よりずっとやりたかったニホンミツバチの養蜂に着手したく、二拠点生活をする南房総の家に巣箱を据えた。ニホンミツバチをおびき寄せるキンリョウヘンというランを横に置き、分蜂時期にまさに固唾を飲んで見守っていたが、残念ながら来てくれなかった。お呼びでないセイヨウミツバチは来てくれた。脚には丸くて黄色い花粉団子がついていて、これを大事に巣に持ち帰る様子に思いを馳せる。はちみつを人間がいただくとき、その複雑な甘みに一層のありがたみを感じずにはいられない。
人知を超えた生物の不思議に触れると筆者の脳内はライブハウスにいる時と同じくらい熱狂する。コロナで変化したのは人間にまつわる世界だけで、対自然の世界には影響がない。影響のない世界を携えると、人はだいぶ暮らしやすい。人間社会の情報が必要以上に不安を掻き立て、自分の人生を揺らしてくる時のメンタルの安全保障にもなるからだ。
「集まれない」は本当にストレスなのか
3密を避けるようになり、これまで礼賛されてきた「集まる」状態が封印された。密集して暮らす都市が過疎化を目指すという価値転倒が起きたわけだ。物理的密度が低いことを強要されたことでできた心の隙間を埋めるかのように、オンラインイベントやオンライン飲みが一気に流行った。そこから2か月あまり、一通りいろいろやってみて「オンラインではやっぱり限界がある、疲れるし飽きてきた。リアルに集まりたい」という声も増えた。
それはそうだろう。筆者もイベント主催を手掛ける立場として、集まれない不自由さを肌身で感じている。ただ、それだけが真実でもない。「不謹慎だから大きな声じゃ言えないけど」という前置きはありつつ、「自粛生活は、すっきりしていて意外と幸せだった」という声も少なくなかった。その多くは女性だという特徴もある。
子どもが小さくて夜の外出が難しいワーキングマザーの友人は「飲みに行けないと損をする。くだけた信頼関係をつくることもできず、面白い話、大事な話にも立ち会えない」と常よりこぼしていた。会社で飲みに行くことなどが減ってきているとはいえ、付き合いのいい人ほど仕事上有利だという基本構造は変わっていないという。
この自粛期間にはそうした潜在的な劣勢状態から解放された気がしたと、ホッとしていた。また、人々が集まってワーイとやっている写真がSNSなどに投稿されることもなくなったことも、すっきりして楽だと感じるそうだ。潜在的なマウンティングは、排他される側は敏感に感受する。
日本は特に、集団でいること、つるむことを好む。その場にいない人が不利になるような状況も生まれやすい。学校でいつも友達といないと不安だという子どもたちや、公園デビューしたらママ友の話についていくために毎日行かないと不安という若い親たち、飲み会に出られなくて置いていかれることに焦る人たちは、集いながら疲れ、集えない時も疲れる。
こうして裏側から見てみれば、集まれないことは必ずしもストレスを生んでいるばかりではない、という側面も見えてくる。