野嶋剛が読み解くアジア最新事情

2020年8月3日

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野嶋 剛 (のじま・つよし)

ジャーナリスト

1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。2016年4月からフリーに。著書に『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社)、『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)、『謎の名画・清明上河図』(勉誠出版)、『銀輪の巨人ジャイアント』(東洋経済新報社)、『ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち』(講談社)、『認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾』(明石書店)、『台湾とは何か』(ちくま新書)。訳書に『チャイニーズ・ライフ』(明石書店)。最新刊は『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』(小学館)。公式HPは https://nojimatsuyoshi.com

(REUTERS/AFLO)

 李登輝の訃報を知らせるニュースを受け取ったのは、新刊『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』に関して、ウエブセミナーを開催している最中だった。その時、私は一瞬何を語ったらよいのかわからなくなり、沈黙してしまった。

 なぜ、そうなったのか。それは、李登輝の死ということはすでに避けられない事態だとわかっていたからではなく、李登輝という人物の一生の終焉を、どのように論じていいのか、わからなかったからだ。これが仮に亡くなったのが陳水扁前総統や馬英九元総統であれば、在任中の総統としての功罪をテキパキと述べられたかもしれない。だが、李登輝については、そうは簡単にいかないのである。

 訃報を伝える日本のメディアには「台湾の民主の父」や「親日政治家」という形容もあった。李登輝には、いずれも、確かにそうした一面はあった。しかし、それらが李登輝のすべてではない。李登輝の人格や人生はあまりにも複雑かつ複合的である。総統在任前に成したこと、総統在任中に成したこと、総統在任後に成したこと、語るべき点が多すぎる。

 なにしろ、97歳で亡くなった李登輝の人生には、台湾が歩んできた波乱万丈の1世紀の歴史が縮図として詰め込まれているからである。

 台湾は17世紀から清朝の統治下にあった。李登輝の先祖は、福建省南部から渡ってきた。客家の血統だと言われるが、李登輝は客家語を話さなかった。台湾では、福建系、客家系、原住民の血が複雑に混じっており、蔡英文総統にも客家の血が入っているとされる。李登輝の忍耐強さ、勤勉さ、周到さは世に言われる客家的な特色と通じるとも言えなくもないが、想像の域を超えるものではない。

 台湾は、日清戦争での日本の勝利により、清朝から下関条約によって日本へ割譲された。1895年のことである。1923年に台北近郊の淡水で生まれた李登輝の父親は警察官で、経済的にも安定した家庭で育った。中国古典の論語や日本古典の古事記や夏目漱石全集などを読破する優秀な子供だった。日本人中心のエリート校である台北高等学校に合格する。中学校のころに李家は日本名に改名しており、岩里政男と名乗っていた。家族が里(り)は李(り)と同音であることから岩里姓を選んだという。

 李登輝は京都大学に入学して農業経済を学んだ。農業経済の専門家、新渡戸稲造を尊敬していたので、新渡戸が教えていた京大に進学したとも言われる。学徒動員の最中に終戦を迎え、1946年に台湾へ戻った。国民党統治下の台湾で共産党系のグループが主催する読書会に参加するなどして、一時当局に目をつけられて危険な目にも遭ったがなんとか切り抜け、農業経済研究者として台湾大学の教授になるまでキャリアを重ねていたところ、能力を見込まれて政治の世界に呼び込まれて49歳のときに行政院政務委員として入閣を果たす。

 本省人登用の流れに乗ったともいえるが、もちまえの洞察力や慎重な立ち振る舞いが功を奏し、外省人中心の政界でもそれほど警戒をされなかった。蒋経国総統のもとで、台北市長、台湾省主席、副総統とトントン拍子に出世し、1987年の蒋経国の死去で代理総統、そして総統に選出された。党内の血みどろの政治闘争を潜り抜けて権力基盤を確立。1996年には、中国からのミサイル威嚇があった台湾海峡危機を切り抜けながら、台湾初めての直接選挙で選ばれた「民選」総統になった。

 さらに、2000年以降には国民党を離れ、国民党陣営と民進党陣営の激しい政治対立のなかでも影響力を駆使しながら闘い続け、一方で、日本への訪問を繰り返してその度に日本政府は対応に頭を悩ませた。李登輝は、日本統治時代の台湾、国民党独裁時代の台湾、民主化後の台湾のすべてに身を置いて経験したことになる。かくも多彩な人生の功罪を、数千文字の文章で語り尽くそうなどという作業はできるものではない。

 李登輝の死去の際の日本のメディアの報道の仕方が「親日的」であることを強調しすぎたという批判があった。李登輝という人が親日的であるかどうかでいえば、日本に親しみを感じ、日本を大切にしたという意味で親日政治家と評することは間違ってはいない。

 李登輝が台湾の政治家としていかに日本を台湾に引き寄せるかという必要性のもとで、親日家の顔を日本人に特に見せていたことも確かだろう。李登輝の歩みを振り返ってみれば、日本の言論人や政治家からの尊敬を勝ち取ることで、日本における台湾の地位向上を果たしている。それは間違いなく李登輝の対日戦略であった。一方で、李登輝の武士道への傾倒、新渡戸稲造や後藤新平への尊敬などを親日のポーズだったと疑う理由も存在しない。日本人と日本語で話すことを李登輝は明らかに好んでおり、日本の月刊誌や日刊紙の購読を続けていた。

 政治家・李登輝としての功績は、台湾の民主化、大陸反攻の放棄を含めた対中関係の再定義、台湾化の推進などが主なものであろう。しかし、李登輝=親日家というイメージの増大は、彼が総統から退いてすでに20年も経過していることを考えれば止むを得ない部分がある。また、新聞各紙の力の入った評伝などをちゃんと読めば、親日だけが強調されたとは言えないことはわかるはずである。

 日本的教養は李登輝のバックボーンであり、読書と思考、執筆は日本語を最も母語的に使っていたように思う。一方、台湾語の表現がもっとも情感豊かで庶民的でもあり、これに比べると、日本語はエリート風の論理的言語の趣があった。北京語は後天的に学習しただけあって、やや硬い印象があり、発音も台湾訛りが強かった。英語は学問的に鍛えたもので、語りにそれほどの自然さはなかった。

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