学校(教室)空間にはたくさんの約束事がある。
学校は子どもたちにとって、友だちをつくる場である。しかし、クラスのメンバーを決めるのは子どもたち自身ではない。決められたクラスのメンバーには相性が悪かったり、なかには「いじめっ子」もいよう。そんな中でも、子どもたちは、友だちをつくらなければならない。「いじめっ子」であっても、何らの関係性をもたないという選択肢は子どもたちにはない。
しかも、学校には、体育祭(運動会)、遠足、修学旅行など多くの行事がある。その都度、「班」が作られる。どこでも教師ははみ出しっ子をどこに入れるか、この班づくりで悩まされる。どこにも入れない子がいじめの対象になっていく。
教師が、「Aさんをこの班に入れてあげて」と頼むと、子どもたちは「入っていいよ」と言うのだが、必ず「うざい!」「面倒くさいなぁ!」というまなざしが返ってくる。
軍隊(警察)などタテの階級制度を中心に成り立っている組織でいじめが多いのは一般的に知られた事実だが、部活動やサークルなど、より強固な人間の関係性を保つ必要がある場ではいじめが起きやすい。さらに厳しい競争にさらされていればいるほどいじめも起きやすい。いじめはある意味でストレスの解消に使われている場合が多いからである。
部活動に熱心な教師の世界でもよくみられる。若い教師を先輩教師が「パシリ」として使うのである。最近は中学生の中でも下級生が上級生を「先輩」と呼び、「パシリ」に使われている。いじめと変わらないが教師世界でもよくみられる風景だ。
「ノリ」が学校と子どもを支配する
「ノリ」から外れる恐怖感は子ども世界では強い。「ノリ」が子どもを死に追いやった事件も少なくない。例えば、1986年、東京都の中学2年生鹿川裕史君が死んだ「葬式ごっこ」のいじめでは、担任の教師さえもクラスでつくられた色紙の寄せ書きに名前を書き、いじめに加担していた。
こういう「ノリ」は日本社会ではよくみられる集団行動主義の一つだ。いつ、仲間から外されてしまうかもしれない。そうならないために気遣いをしながら生きる子どもや若者たちは少なくない。
友だちとの間でスムーズな関係性を維持するために若者たちがつくったのが「キャラ」づくりである。集団内で、一人ひとりが演じる役割を決め、衝突を避ける。
「切れキャラ」「いじられキャラ」などと役柄を決め、集団を盛り上げる。「いじられキャラ」とされるとその集団では延々と演じ続けなければならない。ある意味、いじめ対象として公認することだが、多くの人々はその残酷性に気づいていない。それができないとKY(空気読めない)と集団から排除されていくことになる。子どもや若者の世界では、この場ではどのような役割を演じ、発言をしていけばいいのか、緊張の中で生きざるを得なくなっているのである。
なぜ、学校はいじめを隠すのか
いじめ事件が起きると過去、学校がとった方針は二つ。一つは、この事件は「子ども同士のケンカなどのトラブル」とすること。他の一つは、「親などの家庭が原因」とすることである。学校や教師に原因があることになると、教委や校長ら誰かが責任をとらなければならなくなり、履歴に傷がつくことになる。賠償責任を負うことにもなる。そうしないためには、原因をできるだけ明らかにしないように対策をとる必要がある。だから隠すのである。