2024年12月22日(日)

CHANGE CHINA

2021年11月27日

劉 蘇里(りゅう・そり)
1960年黒竜江省生まれ。リベラルな知的空間のシンボル「万聖書園」代表。父は中国共産党の幹部だったが、文革初期に粛清の一つである「文字獄」に処された。文革後、79年に北京大学に入学。83年に卒業し、中国政法大学修士課程に進み、86年に教員となった。天安門事件が人生の転換点で、釈放後、獄友の劉暁波とともに「誰もが言論の故に罪を得ることのない社会の実現」を願い、93年に万聖書園を開業。

 1989年6月3日夜、人民解放軍戒厳部隊は天安門広場で抵抗し続ける学生や市民を包囲し、拡声器で「政府はあらゆる代価を惜しまず北京での暴乱を平定する」と退去勧告していた。周辺では銃声が響き、このままでは殺戮の惨劇は避けられなかった。

 北京師範大学の若手教員で、後にノーベル平和賞を受賞した劉暁波と3人の盟友は交代でマイクを握り「最小の代償で最大の民主を得るには、非暴力で平和的に生き抜くことが必要だ」と撤退を必死に訴えた。

 翌4日未明、劉暁波は中国政法大学の若手教員・劉蘇里や呉仁華らと犠牲を最小限にする方策を話し合った。そして劉蘇里は、ハンガーストライキの参加者2人を医師とともに戒厳部隊指揮官のもとへ護送し、交渉することで学生・市民の平和的撤退に成功した。

 だが、天安門事件は2人の「劉」の人生を根本から変えた。直後の6日に劉暁波が、15日には劉蘇里が「反革命宣伝煽動罪」で逮捕されたのだ。

 2人の「劉」は高級政治犯を収容する秦城監獄に投獄されたが、しばらくして隣同士の独房に入れられたことに気付いた。2人は水道のパイプを利用して「秘密電話」をかけたり、「放風(散歩や用便で短時間屋外に出る)」の時間に伝言を投げあったりした。しかし、そうした行為が発覚して時間をずらされた。その後2人は釈放されたものの、大学からは追われたのだった。

 劉蘇里は「生きるべきか、死ぬべきか」と逡巡するほど窮迫したが「海外への亡命や内外からの経済的支援を全て拒み、子どもの頃からの夢だった書店を開こう」と決意した。

 彼は幼少期から差別され、教育に恵まれなかった。文化大革命の初期、中国共産党幹部だった父は、新聞で「打倒・劉少奇」、「擁護・毛沢東」と書いたが、その新聞を折り曲げてつなぎ合わせると「打倒・毛沢東」になるという言いがかりをつけられ「現行反革命犯」として糾弾され、労働改造を科されたからだった。

 本を読もうにも、自宅や国営の新華書店にはレーニンや毛沢東の著書ばかりが並んでいた。しかし、政治的混乱で、文革以前に内部参考資料として印刷された「黄皮書(黄色いカバーの文芸関係本)」や「灰皮書(世界政治経済関係本)」が流出し、下放された知識青年の間で読み回されるようになったのだった。


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