1937年7月7日、「盧溝橋事件」が起きる。日本軍が銃弾を撃ち込まれたことから日中戦争が始まる。天皇がその第1報を聞いたのは、葉山の御用邸であった。
近衛文麿首相は「不拡大方針」をとって、「休戦協定」が結ばれた。
その一方で、天皇は元外交官で、上海で紡績業の組合を束ねる、船津辰一郎に蒋介石の南京政府との交渉を秘密裏に委ねた。船津は中国に幅広い人脈を持っていて、南京政府の外交担当の高宗武と接触に成功する。
船津は「帰国政府の出様次第では案外容易に局部的に解決できる」と、持ち掛けた。高も「蒋介石氏は国民に顔が立つ程度なれば必ず我慢して日本の要求に応じる」と応えた。
日本側は、政府と軍部とで、非武装地帯の創設や、事態が収まった時点で日本軍が撤退することなど、穏健な内容を含む「停戦案」がまとまっていった。
戦争指導へと進む流れに
事態は急変する。8月9日、上海において、大山勇夫・海軍大尉が中国の保安隊によって殺害された。外交交渉の余地はなくなった。
「島田繁太郎備忘録」によると、天皇は次のように方針を変更した。
「もうこうなったらやむをえんだろうな。かくなるうえは、外交では収まることは難しい」
田島に対しても、こう回想している。
「戦争は不拡大の内に何とか消して(消火して)しまわないとひどいことになる」
これに対して、田島は次のようなメモを残している。
「『第2次上海事変』の時の増派兵の問題は、陛下御自身でご命令になりしやと拝す」
さらに、天皇は戦争指導ともいえる行動に出る。8月18日に参謀総長を呼び、次のように命じた。
「重点に兵を集め、大打撃を加えたる上に、和平に導き時局を収拾する方策なきや」
こうした一連の天皇の行動について、東京大学教授の加藤陽子氏は次のように指摘する。
「(天皇が)好戦的になったとか、作戦もたてたといわれるのは心外だったろう。外交交渉が決裂した結果、中国の航空作戦によって日本をつぶしにくる、と考えたと思われる」と。
中国軍は、ドイツ軍事顧問団によって精鋭化され、かつ米国の援助によって航空部隊も整備されていた。
「真正面から話しても、うまくいかぬ」
番組は最後に、天皇の中国人に対する生々しい評価で締めくくっている。
「私は支那人(当時の呼び名のままとした)というのは、面子のためかなにかは知らぬが、真正面から話しても、うまくいかぬ国民と思う。満州事変の時の馬占山(中国の軍人、最後まで日本軍に抵抗した)でもそうであった。錦秋でも(万里の)長城線を越す越さぬという時もそうであったし、また上海事変の時もそうであったが、いつでも停戦とか休戦とかという時には、こちらが強く出なければ、だめで休戦の相談など、あまり軍(いくさ)をせぬよう仕向けてはとても見込みなし。戦わぬことをいいことにして、攻めてくるというようなことがある」
「支那と停戦する時には、左に匕首(あいくち)を手にして、右で平和の手段を講ずるのほかにない、と自分の経験上そう思っている。ただし、一方的情報によってそうだと結論しているのだから、あるいは間違っているかも知れぬが、どうも私には確かにそう思う」
日中間の戦争は、ドイツによる仲介をはさみながらも、停戦には至らずに、日本は太平洋戦争に突入していく。
80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
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