2024年11月22日(金)

田部康喜のTV読本

2021年12月9日

 「北伐」に注力してきた、蒋介石の国民党軍に対して、日本軍は十分な対抗ができずに、中国北東部の権益を奪い取ろうとして、この地域を支配していた軍閥を率いる張作霖を亡きものとしようと、河本大作大佐の独断によって、引き起こされた。

 「張作霖爆殺事件の処分をあいまいにしたことが後半、陸軍の紀綱が緩むはじめとなった。この内閣(田中義一首相)の張作霖事件のさばき方が不徹底であったことが、今日の敗戦に至る禍根のそもそもの発端である」

 田中首相は、天皇に対していったんは、事件の真実を内外に表明することを上奏した。しかし、軍部の反対にあって、首謀者の河本大佐も「行政処分」による停職という軽い処分となり、事件の真相も隠された。天皇は田中に対して、「前の話と変わっている」と、叱責。「誠に恐懼(きょうく)致します」と、説明を続けようとする田中首相に対して、「その必要なし」と、激怒した。田中内閣は退陣する。

パール・ハーバーの原因にも言及

 「真珠湾」に至る道の発端について、天皇はたびかさなった「軍縮」にその解を求めようとしていた。米国の国務長官であった、ヒューズ氏が主導した「ワシントン軍縮会議」(1921年~22年)と、ロンドン軍縮会議(1930年)である。前者によって、主力艦において、米英が5であるのに対して、日本は3に抑え込まれた。補助艦について条約を結んだ、後者では、英米10に対して日本は7の比率だった。

 陸軍に比べて、平和的であった海軍の雰囲気は変わった。「条約派」と米英と同じ戦力の保持を主張する「艦隊派」に分裂。太平洋戦争の開戦においては、賛成に回った。

 「春秋の筆法にならえば、ヒューズ国務長官が『パール・ハーバー』を引き起こしたともいえる。平和的だった海軍が戦争に賛成し、(戦力の不足から)堂々と戦うことができず(空から奇襲する)という『パール・ハーバー』になった」

 「春秋の筆法」とは、事実を述べるのに価値判断を入れる、とくに間接的原因を直接結びつけるのに厳しく批判することである。

 田島は「このお部屋のなかだけのことにて」と、天皇をやわらくけん制している。

 「パール・ハーバー」はそもそも、それまでの艦隊同士が相打つ「大鑑巨砲主義」から、空母を利用した空からの攻撃に移行する、山本五十六元帥による戦争の形式を一変させた、「発明」であったことを、天皇は認識していなかったようである。番組が照らしだした、大元帥の姿であったと考える。

 「軍人は常に直前の戦争を前提として、次の戦争の準備をする」といわれているが、大元帥もその例にもれなかったと、感じさせるシーンであった。

3カ月間に見せた紆余曲折の行動

 番組は「二・二六事件」(1936年2月26日)に移る。青年将校が企てた、クーデタである。襲撃を受けて亡くなったのは、高橋是清・大蔵相、斎藤実・内大臣、渡辺錠太郎・教育総監。終戦時の首相となる、鈴木貫太郎・侍従長も負傷した。ここでは、侍従武官の「本庄繁手記」から、有名な天皇の言葉を紹介する。

 「朕が股肱(ここう)の老臣を殺りくす。なんの許すべきか。朕自ら近衛師団を率いて、現地に臨まん」

 「青年将校は、私を担ぐけれど、私の真意を尊重しない。むしろ、ありもしないことをいって彼らは極端な説をなすものだ。麻雀を私はしないのに、やるといった」

 青年将校の間では、天皇が深夜に及んで麻雀をしている、という噂が流れていた。

 そして、今回の「前編」の白眉は、泥沼の14年間にも及ぶ「日中戦争」のきっかとなった「第2次上海事変」(1937年8月13日)をはさんだ、3カ月間ほどの期間に起きた、天皇の紆余曲折を経た行動である。

 張作霖の息子である、張学良が西安において蒋介石を軟禁して、国民党と共産党が「国共合作」の対日戦線を敷いたのは、1936年12月のことである。

 「第2次上海事件」を前にした、日中の緊迫した事態のなかで、天皇は1937年6月29日に「御前会議」を開いた。この席で、陸軍に対して中国と妥協を促した。天皇はこの時点では、外交交渉による解決を望んでいた。


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