公家の三条西実隆に接近
大永8年(1528年)3月9日。時代としては室町幕府の元管領・細川高国が三好元長(長慶の父)に敗れて将軍・足利義晴を担いで京から逃げたり戻ったりを繰り返す頃合いで、越前では朝倉孝景(義景の父)、甲斐では武田信虎(信玄の父)が守護を務め、尾張では織田信秀(信長の父)が尾張半国守護代の奉行職を継いだタイミングとなる。言ってみればビフォー天下統一世代。
そんな動乱の世情の中、この日武野紹鷗が初めて一次史料にその名前を現す。正二位・前内大臣という公家の三条西実隆の日記だ。
「印政が堺の武野を連れて来た。武野は銭200疋の折紙など進物を持参。盃を取らせてお礼した」
古希を超えていた実隆が、27歳の青年・武野紹鷗との初対面にどんな感想を持ったか。
この文面からはわかりにくいが、当時のお公家さんは常に手許不如意とあって、持参金献上の折紙(目録。あとで正式に現金をお渡ししますよ、という約束の形式)を目の前にしてお爺ちゃん公家の頬も自然とゆるんだことだろう。
この時の200疋=2貫文(2000文)という銭、現在の価値に換算して15万円程度(米価ベース)。高貴な人に対しての初対面の挨拶と考えればまぁこんなものなのかな、という感じの金額だが、いったい全体、なぜ紹鷗は実隆を訪れて15万円を差し上げようと考えたのだろうか。そもそも茶道でその名を上げる以前の武野紹鷗(正確には紹鷗を名乗る前の通称・新五郎)なる男は何者なのか。
実隆はこの日の日記に紹鷗についての〝個人情報〟も記している。
「堺の南庄の者で、皮屋という」
当時の堺の町は中央を東西に走る大小路という通りの北側が摂津国に属する「北庄」、南側が和泉国に属する「南庄」に分かれていて、紹鷗は豪商が多く住まう南庄の、舳松(へのまつ)の住人だった(後の千利休、今井宗久らも南庄住まい)。
彼自身も「皮屋」と説明されているように父の代から皮革業を営んでいたが、戦国時代の皮革業の取り扱いは馬具や武具がメインプロダクト。つまり火薬や鉄砲の業者と同じ「死の商人」だ。
そう、紹鷗は戦争を背景に大いに稼いだ豪商の2代目だった。
連歌師の肩書きで人脈構築
そんな彼のもうひとつの顔は「連歌師」。
連歌というのはひとりが五・七・五で上の句を詠み、次の人が七・七で下の句を付けるという順番で複数の人間が長いひとつの歌を詠み継いでいくサロン文学だ。
紹鷗はこの3年前に堺から京・四条に出ると、翌年9月には著名な連歌師の宗長が発句(最初の一句)し座長役を務めた連歌会に参加している。父親からビジネスのための人脈構築を命じられた紹鷗は、当時有力者たちに流行していた連歌によって突破口を開こうと考えたのだろう。
半年後に紹鷗を実隆のもとに連れて来たのは、この会にも同席していた連歌師・印政だった。京に出てから連歌師たちの間に顔を売ってきた紹鷗は、ここでようやく実隆に引き合わせてもらえたのだ。