橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年1月12日

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 さらに紹鷗の奉仕は続いた。享禄3年(1530年)には500疋を実隆に貸し付け、さらに三条西家の重要財源だった苧(からむし。麻織物の材料となる。三条西家は苧座-同業者組合の商人たちの認可権を持つ〝本所〟だった)の税金が滞納されると、35貫文(300万円程度)をポンと贈呈。実隆ももはや紹鷗がいなくては始まらないというほど頼り切っている。

 このままいけば、紹鷗は超一流文化人・実隆の折紙付きの連歌師として名を高め、子分の連歌師をたくさん各地の大名・豪族の元に送り込んで交流を深め、当初の目論見通り商売も繁盛させて名実ともに武野家の格をあげることもできる!

連歌から茶道へ

 ……とは、ならなかった。なんと彼はこの翌年、30歳で連歌師を辞めてしまったのである。

 高名な連歌師と付き合い、実隆の教えを受ける日々の中で、自分には連歌のリーダーたる才能が無いと見極めがついてしまったのかな、と思う。

 だが、紹鷗はネガ感情だけで連歌師の道を諦めたわけでもなさそうだ。それが、茶道への傾倒。実隆から藤原定家著の和歌論文『詠歌大概』を授けられ、その序文から茶湯の精神につながるインスピレーションをビビビッと感じて以来、当時京における四畳半座敷の茶道を背景に、茶湯についても実隆から教えを受けていた紹鷗はその沼にハマってしまった。

 元々、資金力に任せてのコレクター趣味があった紹鷗。『古今和歌集』をはじめとする古典籍や名筆の色紙など、目が飛び出るほどお金がかかる文物を収集していたその財力を、今度は茶道具に振り向ける。松島の壷、灰被(はいかつぎ)天目など、買い集めた名物茶道具は実に60種に及ぶ。

 そしてこの収集事業というのが、金の力に任せてというか、湯水の如く金を使うというか、いかにもバブリーなものだった。

紹鷗の京屋敷「大黒庵」跡

 後に「紹鷗茄子」と呼ばれて織田信長・豊臣秀吉・徳川家光らの手にも渡った茶入れは、前の持ち主が120貫で買ったものを紹鷗が600貫で入手している。5倍のアップ、現在の価値で5000万円以上!そんな調子で60種も買い集めたら、何十億円もかかったんじゃないでしょうか。

 それ以前は100貫のラインが名物茶器の価格の目安だったものが天文期(1532~54年)になると実際5倍に値上がりし、さらに高騰していったというから、紹鷗がこの茶器バブルを演出したひとりだということは間違いないだろう。なにしろ、「当代千万(今の世の超高額)の道具はみな紹鷗の目明(めあき=めきき)をもって召し出される」と評価されたほどだ。

 「侘び茶」=「貧しき茶」は、資金力と自己プロデュース力に富んだ紹鷗から千利休へと受け継がれ、織田信長や豊臣秀吉を熱狂させることになる。

【参考文献】
『朝野旧聞ほう稿』(汲古書院)
『茶道古典全集』(淡交社)
『武野紹 茶の湯と生涯』(矢部良明、淡交社)
『戦国武将と連歌師 乱世のインテリジェンス』(綿抜豊昭、平凡社新書)
『千利休の「わび」とはなにか』(神津朝夫、角川ソフィア文庫)
『宗長日記』(岩波文庫)

  
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