必要な論点はもっと具体的なものだ。
「同盟国との負担配分をより中長期的に安定させる」
「軽武装政策をより厳密に定義し、国際的な信頼を高める」
「ミサイル防衛(MD)など専守防衛の技術力を圧倒的に高める」
「自衛隊の練度を向上させ、国内外に一切隙を見せない」
「調達は公正に行うが、産業の中長期育成にも努める」
「国際貢献には国力の許す限り、そして国益に資する限り全力を投じる」
「核査察の能力、核事故への対応技術など現在の技術水準を死守する」
「民業を萎縮させずにサイバー戦の防衛能力を確保する」
「徹底して透明性を高め、相手国にもそれを要求する」
「一方で、獲得した技術の先進性は絶対に死守する」
こうした点について、実施可能なオプションを徹底的に叩いて、国の方向性を決定する、そうした実務的なディスカッションができていないのだ。
ウクライナ危機を覚醒のチャンスに
問題は、安全保障に止まらない。反原発感情に流され漂流するエネルギー政策もそうだし、経営の近代化に失敗した農政でもそうだ。労働規制改革もそうだし、教育の改革にも同様の構図が見られる。
恐ろしいのは、経済の原則においてすら社会的合意がないということだ。利潤追求や経済成長を悪だとする言論が影響力を持つ一方で、生存に必死な中小企業は黙々と国策に依存するしかない訳で、そこには共通言語すらない。
具体的な対策としては、政権担当能力を持つ現実主義の政党を2セット用意して、選択可能な範囲での政策論議を国会で、また政権選択選挙において展開するのが望ましい。だが、2009年に誕生した民主党政権は、政治的な対立の軸も、実行可能なオプションの提示もすることなく雲散霧消した。彼らは「ポピュリズムの琴線に触れる前政権へのアンチ」を羅列するだけの無節操、無原則なままに終わり、その失敗によって政権交代可能な二大政党制の定着を壊してしまったのである。
明治の改革から150年、国民は必死に働き、必死に戦い、また必死になって平和を求めてきた。けれども明治の成功は昭和10年代の失敗で帳消しとなった。戦後の成功も90年代以降の失敗で壊滅の危機に瀕している。この2つの失敗を教訓として、実現可能な範囲で、そして国際社会の一員として義務を果たせる範囲で必要な選択を行っていかねばならない。
今回の危機を、日本という国は、そのような覚醒のチャンスとしなければならない。その点で、岸田文雄政権は中道実務派的な立ち位置に近く、もっともっと自信を持って政策の提案、説明から合意形成に至るリーダーシップを取れるはずだ。その岸田政権が、一部世論に迎合して水際対策をズルズル続けたり、高齢者向けのバラマキを模索したり断念してみたりなど、選挙対策の迷走に終始しているのは極めて残念としか言えない。