まず、高齢者を中心とする左派にはイデオロギー的な反戦思想がある。思想ということでは、世界各地に見られるものであるし、亡国に至った歴史を繰り返したくないという点ではドイツにも類似の態度は見られる。だが、まるで敗戦で失った倫理的な名誉を挽回したいかのように同盟国の安全保障行動を批判したり、経済力のあった時期でもカネを出し渋るなど、国を孤立に追いやるような言動は行き過ぎだ。
また、安全保障に関する国内の現実主義をまるで危険思想のように見下して批判する姿勢、とりわけ自分の国は「下手をすると軍国化するから自制すべきだ」などと叫んで、自国民を罵倒する姿勢も醜悪である。このように一国に閉じこもった絶対平和思想というものも、在日米軍の防衛努力に守られた上の空想だと考えれば滑稽ともいえる。
一方で、同じような行き過ぎは、軍事力の確保に賛成する勢力にもある。西側の安全保障体制の一翼を担うという姿勢が、どういうわけか、歴史修正主義とセットになっているのである。自由陣営の一員として自衛隊を支持し、国際社会における貢献を推進する主張が、相当な程度に東京裁判の見直しを主張したり、戦犯の合祀された靖国神社への政治的な参拝という行動とセットになっている。
こうした行動は不自然であり、これでは国連(=連合国)の主導する世界秩序に対して叛意(はんい)があると言われても仕方がない。危険を冒して活動する自衛隊を、後ろから斬りつけるような言動である。また、平和への犠牲となった個々の戦犯とその家族への礼節にも欠けている。
けれども、米国などが「日本の歴史修正主義は、あくまで国内向けの人畜無害なもの」として目をつぶってくれていること、さらに他国の懸念に対しては「在日米軍が瓶の蓋になっているから心配なく」などと解説してくれていることで、現在まで「事なき」を得ている。
全くない安全保障に関する「中間」の議論
ロシア=ウクライナ戦争という厳しい環境下、この種の歴史修正主義、つまり「戦後の価値観に合おうが合うまいが、戦前の行動についても名誉回復を主張することが愛国だ」という言動の危険性が露呈している。既に韓国との関係を調整できないことで、北朝鮮をはじめとする仮想敵勢力を大いに利することになっているし、プーチンがこの点をプロパガンダに悪用すれば日本の威信を傷つけることは容易であろう。
しかし、空想的な平和主義や、非現実的な枢軸日本の名誉回復願望が、国際社会から激しく批判される状況は、幸いなことに今のところは現実のものとはなっていない。問題は、こうした左右対立の政治風土により、日本国内における実務的な議論がほとんど不可能となっていることで、これは喫緊の課題と言っていいだろう。
最大の問題は、戦後77年にわたって結果的に日本の安全を保障してきた「在日米軍」+「自主軽武装」という枠組みに関して、積極的な支持の声が低いことである。軍事的なるものを認める立場になれば、すぐに軍拡や核兵器保有など非現実的な極論に突っ走る。一方で、これに対抗する政治的立場は、絶対的な反軍事思想からの声高な批判を繰り返すだけだ。その中間には巨大な空白がある。
これでは、実現可能な範囲における複数のオプションを、実務的に議論するということは、国会の論戦においても、あるいは選挙における選択という意味でも全く機能しないことになる。議論の場は密室、つまり官庁内部の議論と、自民党の派閥間の議論などがあるだけで、そこで苦労して得た結論も、メディアに叩かれ、左右の国民の感情論から叩かれると実現できないこともある。