2023年2月8日(水)

脱「ゼロリスク信仰」へのススメ

2022年5月16日

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唐木英明 (からき・ひであき)

東京大学名誉教授

1964年東京大学農学部獣医学科卒。農学博士、獣医師。東京大学農学部教授、日本学術会議副会長、倉敷芸術科学大学学長などを経て現職。著書に『不安の構造 リスクを管理する方法』(エネルギーフォーラム新書)。

 外界から危険情報を受け取るのが視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五感だ。食品に関する危険情報についても、五感がフル活用されている。苦味やえぐみは化学物質の味で、酸味は腐敗したものの味であり、子どもは本能的に嫌がる。苦味や酸味をおいしいと感じるのは、そうした経験を習得した大人の好みだ。

 逆に甘味は糖分、うまみはタンパク質が分解したアミノ酸の味であり、これらを本能的に好むことで栄養成分の摂取を助けている。こうして五感は危険から逃れるために大きな役割を果たしている。

少ない努力で結論を求め、「危険」情報が心を占める

 人間の判断の方法をヒューリスティクと呼ぶのだが、簡単に言うと少ない努力で直感的に結論を求める方法だ。

 例えば4桁の暗証番号を忘れたらどうするだろうか。0000から9999まで1万回試してみれば確実に正解が分かる。しかしそんなことをする人はいない。

 多くの人が行うのは、誕生日や電話番号など、いつも使っている数字を試してみる直感的な試行錯誤で、これがヒューリスティクだ。勿論これでは正解が分からないこともある。にもかかわらずこんな方法を使うのは、人間の情報処理能力に限界があり、特に重要な問題でない限り時間をかけて熟考する余裕がないからだ。重要な判断であっても危険の見極めは瞬時に行わなくてはならないため、直感的な判断の方法を採用している。

 こうした直感的な結論を求める行動が危険情報を重視させ、社会での情報のアンバランスを生む悪循環を引き起こす。危険情報は売れるので、テレビにも週刊誌にもネットにも危険情報があふれている。他方、安全情報は売れないのでほとんど出回らないし、あっても関心を持つ人は少ない。

 例えば添加物をネット検索すると、アレルギーになったとか、がんになったとか、子どもが多動性障害になったなどのフェイクニュースが出てくる。添加物の安全性は国の厳しい規制で守られているので健康被害は出ていないなどの安全情報も多少は見つかるが、その内容は分かりにくく退屈だ。

 フェイクニュースの方がずっと面白くインパクトがあり、直感的な判断がしやすい。多くの人が欲し、作りやすい情報のため、量は圧倒的に多くなる。量は重要で、私たちは情報量の多い方を信じる本能を持っている。社会では多数の意見の方が正しいことが多く、多数に従った方が生きやすいからだ。

 こうして危険情報と安全情報の勝敗は明らかで、安全情報が勝利する可能性は小さい。その結果、多くの人が添加物に対して不安を感じて避けておこうという判断をしているのだ。嫌われ者の残留農薬、遺伝子組換え、原発、ワクチンなども同じ構図である。

医療専門家も見せるゼロリスク志向

 私たちは意識的に危険を逃れる行動をとっているのだが、実は最重要の危険回避システムが無意識のうちに働いている。それが免疫だ。

 免疫は体内に侵入した細菌やウイルス、寄生虫などの病原体を攻撃して無毒化するので、免疫の種類が多いほど生き残る確率が高くなるのだが、個人が持つ免疫の種類は限られ、個人差がある。進化の過程で雌雄ができた理由の一つは、子どもが両親の免疫を受け継いで、その種類を増やすことで生存の確率を高めるためと考えられている。

 歴史を見ると、弥生時代には稲作と同時に結核が入ってきて、免疫を持たない多くの人が亡くなった。また仏教伝来とともに痘瘡(天然痘)など多くの感染症が侵入した。

 世界史を見ると、14世紀にヨーロッパで流行したペストで人口の3分の1が死亡した。ヨーロッパ人はアメリカ大陸に多くの感染症を持ち込み、北米では原住民約1000万人の95%が感染症で死んだと言われる。免疫の有無が生死を分けるのだ。

 そんな知識と不安を持っている医療専門家は、だれも免疫を持たない新型コロナウイルスに危機感を抱き、対策への国民の協力を促すために、不安と恐怖を呼び起こす情報を広げた。他方、感染者と死者の数はインフルエンザと大差がないなど、不安を打ち消す情報は隠蔽した。医療専門家がゼロリスクを目指すのは当然だが、それを政策に持ち込んだことはリスク管理上の大きな問題がある。


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