リスク「ゼロ」ではなく、「最適化」を
ここまで「危険」と「リスク」の2つの言葉を使ってきたが、実はこの二つは全く異なる概念である。そもそも日本語にリスクを意味する言葉はなかった。
牛海綿状脳症(BSE)問題が起こった時、英国政府は病原体が蓄積する脳などを「特定リスク部位」と呼んだのだが、厚生労働省はこれを「特定危険部位」と訳した。ドイツの社会学者ベックが書いた『リスク社会』(1986年)は欧米でベストセラーになったのだが、その和訳の題名は「危険社会」だった。日本では危険とリスクを同じと考えていたのだ。
しかしそれは間違いであり、「リスク=危険要因×出会う機会」なのだ。
例えば野生のライオンは大きな危険要因だ。しかし日本でライオンに出会う機会はほとんどない。だからライオンのリスクはほぼゼロである。
私たちは年に何回も風邪をひく。しかし風邪の症状は軽い。出会う機会が多くても、危険の度合いが小さいので風邪のリスクは小さい。
すると、リスクを小さくする方法は2つあることになる。1つは危険要因そのものをなくすことであり、例えば原発や添加物を禁止すべきという考え方だ。もう1つは危険要因に出会う機会を減らすことであり、そのために安全対策を強化することだ。
ゼロリスクをどれだけ望んでも、病気も事故も犯罪も戦争もなくなることはない。といって諦めたら改善も改革もなくなる。だからこそ私たちは永遠にゼロリスクを追い求める。
しかしゼロリスクを最優先にすると、リスクがある自動車も飛行機もワクチンも、あらゆる新技術を諦めて、狩猟採集時代に戻ることになる。そうした時代であっても、ゼロリスクではない。
ゼロリスクの矛盾を解決するのは、あるリスクを受け入れることが別のリスクを減らすこと、すなわちリスク最適化を理解することであり、それが人間のしたたかな生存戦略なのだが、それは次回に。