2024年4月24日(水)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2022年8月26日

次々に弾圧された台湾の知識人

 もう1人、台湾大学医学部で葉の2年後輩に当たる顔世鴻の人生を、彼が著した『青島東路三號』(啓動文化 2012年)から尋ねてみたい。

 さつま芋の形に似ているところから、かつて台湾の人々は自らを「いもっ子」と呼んだ。いもっ子の1人である顔世鴻は、1945年3月に台北帝大医学部に入学する。だが戦況は厳しく勉学どころではなく、当然のように国土防衛の前線に赴く。それから半年ならずして日本は破れ去った。

 台湾防衛の任務を解かれて動員先から大学に戻った顔ら学生を前に、当時の安藤正次総長は訴えかける。(以下、『青島東路三號』に中国語で示された挨拶の一部を訳してみた。安藤は日本語で語り掛けたはずだから、原文を読んでみたいものだ)。

――「1人の日本人として、こう言うべきではないかもしれませんが、1人の知識人としては、すでに開戦時には今日の事態は予測できました。・・・犠牲になった学友を除き、君らは無事に帰還してくれました。誠に、誠にご苦労様というほかありません。
 我らが国家は敗れ、一切は灰燼に帰してしまいました。今後の国家の建設と復興は、凡て君らの2本の腕と叡智にかかっているのです。記憶してくれたまえ。一切を失った者は一切を得ることができる、ということを。君たちが心の中まで荒ませてしまったら、我らの国家は本当に衰亡の道を歩んでしまうのです。
 いま申し上げたことを、どうか、どうか心に深く刻み込んでくれたまえ。『一切を失った者は一切を得ることができる』。有難う。本当に、本当に、ご苦労様でした」――

 日本は敗れ果て、形の上からだけでも中華民国は勝利した。安藤が口にした「我らが国家」は、もはや顔にとっての「我らが国家」ではなくなったのである。

 やがて顔は汽車で帰郷する。車窓から目にした風景は一変していた。「大半の民家の屋根には(中華民国国旗の)青天白日旗が挿されていた」。「(故郷の)集落では深夜までドンチャン騒ぎであり、まるでお祭りのようだった」。誰もが中華民国を祖国と思い、祖国の内懐に抱かれる喜びに沸きあがっていたのだ。

 だが台湾海峡を渡ってやってきた祖国の「役人と兵は台湾を自らの殖民地と見下す。最高責任者の陳儀長官までもが民権すら知らず、それまでの日本時代の教育を殖民地教育・奴民教育と呼ぶほどだった。これこそが、台湾人の怨みの根源」であった。

 47年に台北大学医学部と名前を変えた母校に戻った顔らは、国民党政権の独裁、台湾人無視、底なしの腐敗に怒りを滾(たぎ)らせ、学生を中心に反国民党勢力の糾合に動く。

 だが、国民党政権の無慈悲極まりない「白色テロ」に犠牲者の山を築くしかなかった。顔もまた逮捕され、台北市内の青島東路三号に置かれた国民党軍法監視所に放り込まれる。「あの荒みきった時代、台湾の知識人は次々に青島東路三号にブチ込まれた。幸運な者に待っているのは緑島。不幸な者の向かう先は生臭く凄惨で、血塗られた馬場町」。


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