2024年4月20日(土)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2022年8月26日

 45年10月19日の日記に《八年の苦しい戦いをへて、祖国は今栄えある勝利に達した。我々はこの偉大なる努力の結晶が次に時代の飛躍力たるを信じて疑わない》と記す一方で、それから2カ月が過ぎた12月16日には《我らは日本の帝国主義を打倒した。しかし、我らは日本の滅亡を断じて望まない》と呟くことも忘れてはいない。

 台湾人・葉盛吉は「日本の滅亡を断じて望まない」との思いを抱きつつ、心躍らせながら「祖国」への「光復」を果たした台湾に帰郷する。だが、「ポルトガル人が麗しき島(Ilha Formosa)と呼んだ私たちの故郷が、蔣介石の国民党政権によってひどく荒らされていたとは、葉も私も、その他の多数の在日台湾人も、故郷に着く前は、全く知らなかった」。ここに「私」と記すのが楊威理である。

 楊は「台湾人は中国への復帰を心から喜んだ。あたかも虐待された里子が実家に戻ったが如くに。一九四五年十月、台湾人は大陸から来た中国政府の官吏とその軍隊を迎えた。その歓呼の声は空に響きわたるほどであった」。だが「同じ中国人でありながら、大陸から来た、いわゆる『外省人』は、あたかも征服者のごとく振る舞い、『本省人』の台湾人を虫けらのように取り扱った」と痛憤を隠さない。これが当時の台湾人一般の偽らざる思いであったに違いない。

「征服者のごとく」振る舞われる日々

 46年4月8日、「五年ぶりで懐かしの故郷に帰ってきた。基隆港に着いた・・・第一印象」を、葉は日記に《埠頭にいる国軍は実力なし。幻滅的悲哀を感ず》と吐き捨てた。48年1月10日には《社会は退廃とサボタージュ。貧汚と淫乱。Alkoholismus〔アル中〕に豚》と哀しみと苦しみが交錯するやり切れない思いを綴る。

 因みに日本の敗戦を機に「ポツダム少尉」から学生に戻り、台湾に帰って台湾大学で学業を続けようと決心した台湾青年・岩里政男は、大陸からの国民党兵士を軽蔑する仲間に対し、「我らが国家のため、こんな劣悪な装備でも、国軍は日本人に打ち勝つことが出来た。考えられないことだ。彼らに感服の眼差しを送るべきだろう」と語り掛けている。李登輝、23歳の春である。

 葉が編入学した台湾大学医学部は、「あたかも征服者のごとく振る舞」う外省人によって制圧されていた。「虫けらのように取り扱」われた本省人を糾合し、国民党による暴政に反対の声を挙げ、葉は国共内戦に勝利しつつあった共産党に台湾の将来を託そうとした。だが悲しいことに、「大陸に住んだことのない台湾人は、中国共産党の実態を全く知っていなかったのである」。

 「中国大陸で血なまぐさい闘争を続けてきた」が、「一九四九年十二月に大陸から追い出された国民党は、この闘争の舞台を台湾に移した。葉はこの血の闘争で犠牲者」となる。

 「初冬の台北は、朝からこぬか雨が降っていた。薄暗い明け方に、葉を含めての十一名が呼び出され」て、台北の西南部を流れる新店渓の河端にあった処刑場へ送られる。50年11月29日のことであった。つい数年前までの日本時代、一帯は馬場町と呼ばれていた。


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