日中両国は9月29日に国交正常化50周年を迎える。8月2~3日、ペロシ米下院議長の台湾訪問に激怒した習近平国家主席は弾道ミサイルを次々発射し、うち5発を日本の排他的経済水域(EEZ)内に着弾させ、対日威嚇を強めた。
日中高官は8月17日、天津で7時間にわたり協議したが、緊張はなお続く。友好と対立が交錯した50年間の日中関係の「分水嶺」はどこかと尋ねられれば、共産党が存亡の危機に瀕した1989年の天安門事件での日本政府の対中政策だろう。日本政府はあの時、一党独裁体制の維持のためには人民の流血も厭わない共産党の本質を見誤ったのではないか。
「民主化」に進むか「強権国家」のままか
筆者は、秘密指定を解除された日本の外交文書と、当時の外交官の証言を基に7月に『天安門ファイル―極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』(中央公論新社)を上梓した。序章にこう記した。
「天安門事件前夜は、中国が最も民主主義に近づいた瞬間だった。それが6月3~4日の武力行使によって崩れた。6月4日以降、外交官たちは次のことで悩み、中国共産党の本質をつかもうとしたに違いない。
中国は改革開放が進めば、民主化や自由化に進むのか、あるいは、もともと市民に銃口を向け、実際に発砲することもためらわない強権国家なのか――。
贖罪意識を強く持ち、『友好』と『協力』を主流とした戦後日本の対中外交にとって『分水嶺』であった」
「日本にとって望ましい中国像」描き対中外交
血なまぐさい権力闘争が中国全土を大混乱に陥れた文化大革命(1966~76年)が毛沢東死去とともに終結してまだ13年。失脚から復活した鄧小平が78年にスタートさせた改革開放政策はインフレや腐敗などの副作用を生み、大学生らは政治改革も進めないと国は変わらないと憂国意識を強めた。当時の中国の経済規模は、日本の8分の1程度で、「弱い中国」だった。
過去の戦争への贖罪意識を抱える日本政府は、戦後賠償の意味もあり、79年に対中政府開発援助(ODA)を開始した。当時日本の対中外交を仕切ったチャイナスクール外交官は、天安門事件という流血の人権弾圧があっても、対中ODAを通じて改革開放は進み、自分たちにとって「望ましい中国」がつくられるだろうと堅く信じた。
天安門事件直後の89年6月12日の外交文書には「我が国にとって望ましい中国像」とは「あくまで、安定し、穏健な政策により近代化を進める中国」と明記された。日本が改革開放に関わる中で、ゆっくりと安定した形で民主化や自由化に進む中国の姿を描き、それが「国益」につながると判断した。