2024年12月22日(日)

古希バックパッカー海外放浪記

2022年10月30日

(2022.7.16~9.11 58日間 総費用22万5000円〈航空券含む〉)

モンテンルパの丘は遥かなり

 渡辺はま子が歌った『あゝモンテンルパの夜は更けて』は、1952年に発売され大ヒットとなった。筆者は1953年生まれであるが、ラジオから流れていた物悲しい曲調は記憶にある。当時フィリピンのマニラ近郊のモンテンルパにあるニュー・ビリビッド刑務所に収容されていたBC級戦犯が故郷を偲んだ歌であると聞いていたので是非とも訪問してみたいと思っていた。

 マニラの安宿からフィリピン国鉄(PNR)パコ駅まで15分歩き、駅員さんに確認するとパコ駅から約1時間でバラング駅に到着。そこから乗合自動車(jeepney)で約30分らしい。電車が来るまで40分待ち。車両は日本のJRの払下げで日本語の注意事項の表示がそのまま残っていた。

 バラング駅から延々と歩いて目的地行きの乗合自動車に乗る。市街地を抜けて急坂の丘の途中で乗合自動車が止まった。ドライバーが降りろと叫んで指を差しているほうを見ると「ニュー・ビリビッド刑務所更生局(Bureau of Correction)」とゲートに書かれていた。ゲートの写真を撮っていたら警備員が飛んできて一帯は写真撮影禁止であると厳重注意。

 グーグルマップによると、刑務所や日本人墓地はゲートから5キロくらいある。警備員の話では日本人墓地に入るには警備事務所で許可を得なくてはいけないと。警備事務所まで数キロあるので徒歩では無理と言われたがタクシー、乗合自動車などの車両は構内進入禁止だ。仕方なく炎天下往復10キロ歩く覚悟で歩き出した。

日本軍占領中はニュービリビッド刑務所はフィリピン人政治犯やゲリラが収容されていた。当時の日本軍の高射砲

山下将軍の財宝(General Yamashita Treasure)を探しているのか?

 小一時間歩くと日本人墓地まで2キロくらいのところに「●●●Halfway House(JICAの協力で建設された)」と看板があった。休憩がてら立ち寄ると国際協力機構の資金援助で建設され運営支援も受けている「刑期を終えた元囚人が社会復帰するための支援施設」だという。刑期を終えても帰る家がない元囚人に寝床を提供し、社会復帰に向けた教育や職業訓練を行う施設らしい。

 話によると日本人墓地は刑務所構内にあり普段は門が閉じられているので警備司令官の許可が必要と大袈裟なことになってきた。施設のチーフらしい男が警備事務所の知り合いに電話するからコーヒーでも飲みながらゆっくり待てと。

 チーフはなぜ日本の爺さんが日本人墓地にたった1人で来たのか訝しんだ。日本人墓地に来るのは日本人墓参団だけで、日本領事館から事前に警備事務所に連絡が来るという。たまに1人か数人で来る日本人は旧日本軍の山下将軍が隠したという財宝探しが目的らしい。以前は数年に1回くらいの頻度でお宝探しの日本人が来たという。お前も父親か爺様から譲られた古い地図を持っているのかと冗談半分で聞かれた。しばらくすると話がついたらしくトヨタハイラックスで警備事務所に連れて行ってくれた。

刑務所はドウテルテ前大統領のお陰で超満員状態

 警備事務所では司令官(commander)室に案内され司令官に用件を説明。司令官は意外に若く30代半ば。日本人と聞くと興味津々であれやこれや質問。一度日本にいったことがあるが、もう一度寿司とウニを食べに日本に行きたいと。そのうちにいい香りのフィリピン産コーヒーが出てきた。司令官は車と案内を手配したからもう少し休憩してくださいと丁重だ。

 雑談している合間にも頻繁に決裁のサインをもらったり、簡単な報告をするために部下が頻繁に出入りする。警備隊の任務は平時の警備だけでなく、刑務所内で暴動が発生した時の鎮圧、そして外部から囚人を脱獄させるために襲撃してきたときの防衛とのこと。壁一面に刑務所の平面図と緊急時の防衛地点などが記されている。この司令官室が作戦指揮所(operation room)になるという。

 現在はドウテルテ政権時代に警察が麻薬などの犯罪撲滅キャンペーンをしたのでビリビッド刑務所はひどい定員オーバーで囚人の不満が高まっているようだ。

BC級戦犯の墓碑はひっそりと熱帯植物の茂みに覆われて

モンテンルパの丘の中腹にある刑務所入口のゲート。法務省矯正局ニュービリビッド刑務所とある

 トヨタの小型バスで案内役の警備兵にモンテンルパの丘に建つニュー・ビリビッド刑務所の周囲を案内してもらった。刑務所本部の建物などは創建時のままの外観でスペイン風建築様式だ。刑務所を囲む塀は戦後逐次増強されて現在では高さ10メートルくらいの分厚いコンクリート塀の上にさらに鉄条網で覆っている。コンクリート塀の上に看守塔が数十メートルごとに配置されており脱獄は至難のようだ。

ニュービリビッド刑務所の塀

 日本人墓地は刑務所の敷地の隅にあり、フェンスで囲われて門は施錠されていた。案内役が扉を開けて奥に進むと幅3メートル、高さ2メートルくらいのお堂のなかに「十七烈士の墓」とだけ刻まれた墓碑が立っていた。

日本人墓地にはニュービリビッド刑務所で処刑された17人のBC級が 眠る。左に慰霊塔があり中央にお堂がある。お堂の中央には『十七烈士の墓』とのみ刻されている

 どこにも由来や人名などの記載がなく、故人を偲ぶ手掛かりはまったく見つからなかった。それだけに17人の無念さが伝わってきた。家族としては戦争犯罪で処刑されたことは隠しておきたい、本人の名前を世間に知られたくないという事情があったのだろうかと想像した。

ヒット曲『あゝモンテンルパの夜は更けて』が歴史を動かした

 この曲の由来を調べてみると興味深い人間ドラマがあった。この曲はニュー・ビリビッド刑務所にBC級戦犯死刑囚として収容されていた代田銀太郎大尉が作詞、同じく死刑囚の伊藤正康大尉が作曲したものを当時刑務所で教誨師をしていた加々尾秀忍師が渡辺はま子に送ってレコード化された。1952年発売されると20万枚という当時としては空前の大ヒット。

 1952年12月、渡辺はま子は国交もなくビザも下りないフィリピンに香港経由で渡航。モンテンルパにあるニュー・ビリビッド刑務所で囚人たちの前で『あゝモンテンルパの夜は更けて』を熱唱した。これを契機に日本国内では死刑囚の助命嘆願書に500万の署名が集まったという。

 翌1953年5月、加々尾師は前々から懇願していたフィリピンのキリノ大統領との面会を果たす。加々尾師はオルゴールに入っている『あゝモンテンルパの夜は更けて』をキリノ大統領に聞いてもらい、死刑囚が作詞作曲したことを説明した。

 大統領は「私はマニラの市街戦で妻、次男、長女、三女の4人を日本兵に殺された。日本兵を最も憎んでいるのは私です。しかし憎しみでは争いは永遠に終わらない」と語ったと言われている。

 1956年大統領は105人の死刑囚も含めBC級戦犯全員に特赦を与えた。そのとき大統領は国民に向けて「キリストが説いているように愛と寛容で憎しみの連鎖を止めることで平和な世界になるのです」と説いた。そして作詞した代田大尉、作曲した伊藤大尉も晴れて故郷の土を踏んだという感動的美談である。

キリノ大統領は冷徹な現実主義者の政治家だったのだろうか?

 他方でキリノ大統領の経歴を調べてみると1949年の選挙で大統領に就任するが、その直後に初めて3人のBC級戦犯がニュー・ビリビッド刑務所で処刑されている。そして日本との賠償問題が難航して日本側がフィリピンの要求を拒否した直後には14人が処刑されている。賠償交渉で日本政府への圧力をかけるための処刑であったという見方もある。

 1950年に朝鮮戦争が勃発して東西冷戦が激化するなか51年には日本はサンフランシスコ講和条約・日米安保条約を調印して西側陣営の一員となった。このような国際情勢のなか米国はフィリピンが日本と和解して関係強化することを望んでいた。そしてキリノ大統領は53年11月の大統領選挙での再選を目指していた。

 こうした複雑な状況を冷静に見極め最終的にはキリスト教的人道主義の精神からBC級戦犯105人の特赦を決断したのではないだろうか。


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