2024年4月26日(金)

古希バックパッカー海外放浪記

2022年11月6日

マニラ一番の観光スポットで見せられた日本軍の残虐行為

 7月19日。マニラ観光の目玉であるスペイン統治時代に築かれた要塞都市インストラムロスに行く。マニラ大聖堂やローマ広場などを経て北上すると川に面した突端にサンチャゴ要塞がある。サンチャゴ要塞はスペイン統治時代には海賊などからマニラを守る防衛の最前線となった軍事拠点である。同時にスペインからのフィリピン独立の精神的指導者としてすべてのフィリピン人が敬愛する国民的英雄ホセ・リサールが処刑された場所でもある。

 このサンチャゴ要塞はマニラを訪れるすべてのフィリピン人および外国人観光客が見学する観光スポットだ。このサンチャゴ要塞にはホセ・リサール記念館と監獄跡がある。監獄跡には至る所に実物大の日本兵の看守と投獄されたフィリピン人政治犯やゲリラの精緻な人物像が展示されていた。囚人たちが拷問されたり殺されたり満潮時に水没する牢獄で溺死する様子が生々しく再現されている。

 国民的英雄ホセ・リサールの崇高な思想と理想の人間像に触れた後で、人間として真逆の日本兵の残虐行為を見ることになる。マニラの軍事法廷でも多数の証拠・証言により立証されている歴史的事実を眼前に突きつけられた。日本人として正視するに堪えない胸が痛くなるような光景である。現代に生きる日本人が忘れてはいけない戦争の記憶なのだ。

 太平洋戦争はアジアの諸民族を欧米支配から解放したとか、戦後の軍事裁判は杜撰な証拠と曖昧な目撃証言により多数の無実の元日本兵が戦犯として処刑されたとか、ともすると日本軍の行為を擁護するような言説を昨今耳にする。しかし我々は勇気をもって歴史と向き合わなければならないとサンチャゴ要塞で教えられた。

サンチャゴ要塞の監獄跡。日本兵に拷問され虐待を受けるフィリピン人政治犯・ゲリラの展示

「バターン死の行進」のバターン半島のバランガを

 7月23日。バターン半島の小都市バランガの戦争博物館を訪問した。博物館は小学校の敷地内にあった。この小学校には進駐してきた日本軍の司令部が置かれていた。現在でも一部の老朽化した建物が残っている。博物館の前の庭にはテーブルを挟んで協議している6人の軍人の銅像があった。「World War II Surrender Marker」と書かれていた。

 解説によるとマッカーサーが脱出した後にバターン半島に立てこもった米軍・フィリピン・コモンウェルス軍(フィリピンは当時将来の独立に向けての自治政府がありフィリピン・コモンウェルスと称していた)の降伏協議である。日本側代表は本間雅晴中将の参謀であった中山源夫陸軍大佐とある。

日本軍に降伏を申し入れるキング・ジュニア少将と幕僚と日本軍代表の会談

 他方で米軍代表はエドワード・キング・ジュニア少将(Major General Edward King Jr)とある。彼の言葉が碑文に残されていた:“No one surrendered but me. If there is any blame, it’s mine. I ordered you to surrender. You don’t do anything but take orders. 「私以外誰も降伏していない。もし責められるとしたら、それは私である。私が君たちに降伏を命じたのだ。君たちは命令に従っただけだ」

 責任はすべて私にある、君たちはなんら恥じることはないと兵士を鼓舞したのだ。どこかの国の政治家に聞かせたい言葉だと思いメモした次第。

 後日調べると、彼はバターン半島に立てこもった米国陸軍およびフィリピン・コモンウェルス軍の兵士約7万3000人が食料不足と疾病により戦闘継続困難に陥っていることから、圧倒的に優勢な日本軍との戦闘を停止すべきと決断したという。兵士たちを無駄死にから救ったキング少将であるが、不幸なことに“バターン死の行進”で7万3千人のうち1万人近くが落命することになった。

サマット・マウンテン国立慰霊公園

 日本軍と米比軍の死闘があったバターン半島のサマット山は国立慰霊公園となっている。サマット山の麓から約一時間かけて戦後日本の関係者がたてた慰霊碑まで歩いた。かなり傾斜の厳しい山道で10分ごとに小休止。重装備の軍装で戦うことがどれだけ過酷なことか想像できた。

 慰霊碑には観音像と聖母マリア像が仲良く並んでいた。激戦で亡くなった日本兵・米兵・フィリピン兵を弔うという趣旨だ。さらに3時間歩くと山頂に大きな十字架と教会があるが、現在はコロナ対策で閉鎖されていることもあり断念。

 帰りにバターン死の行進の舞台となった道を15分ほど歩いた。現在は舗装された地方幹線道路となっており、周囲はのどかな田園が広がっていた。

日本軍占領下の日本語教育は?

 他の東南アジアの国々では日本軍占領下での日本語教育の名残を見聞きすることがしばしばある。現地のお年寄りが往時を懐かしんで国民学校(小学校)で習った日本語や日本の歌を披露してくれるのだ。

 例えばマレーシアのコタキナバルではお年寄りが「コウキョ・ヨーハイ」「キオツケー」「キサマー、タルンドル」など今では死語となっているようなニホンゴを披露してくれた。またインドネシアのスマトラ島の地元の温泉では老人がいきなり「ミヨ ヒンガシノ ソラアケテー♪」と突然歌いだした。

 ところが今回2カ月弱のフィリピン島巡りではまったく占領下の日本語教育の残滓を聞くことがなかった。日本の文部省の記録によるとフィリピンには主に日本人の英語教師をフィリピン各地の国民学校に派遣したとある。当時すでに米国によりフィリピンのすべての市町村に学校が建設され英語が普及していたからだ。

 フィリピンでは現在でも平均寿命が男67歳、女73歳と短いので、当時小学生だった世代が存命している確率が低いということも理由かもしれない。さらに親から占領下の体験を聞いたという人の大半は「日本軍が占領している間は山の中に逃げていた」「日本軍から逃げるのに必死で学校に行ってない」という。それほど日本軍の支配は苛烈だったのだろうか。

 8月18日。レイテ島のタクロバン市郊外にある中国人墓地でフィリピン華僑の歴史を探ろうと墓碑を調べていた。福建省南安出身の楊氏一族の家族が墓参りをしていた。話を聞くと祖父は戦前に福建省から移住。日本軍が進駐すると財産を没収され終戦まで刑務所に収監され拷問を受けたという。日本軍が軍費を賄うために華僑に金品の提供を命じたが、祖父が全額は払えないと抵抗したのでゲリラ容疑で逮捕されたという。大岡昇平の小説『野火』(新潮文庫)で描かれているように日本兵はフィリピン人をみんなゲリラだと考え非道な行為をしたのだろうか。

マッカーサー上陸記念国立公園にある将軍と幕僚の群像

山下将軍の財宝?を巡る悲劇

 8月28日。ビガンの宿で女将の親戚の50歳くらいの女性セイラから忌まわしい事件を聞いた。米軍が上陸して日本軍がマニラを放棄してルソン島北部に移動してきた頃、セイラの旦那の祖父が自分の土地を掘っていたら一個の金塊(gold ingot)が出てきた。金塊発見の噂はたちまち広がり日本軍の知るところとなった。日本軍の隊長は義理の祖父に金塊を見つけた場所に案内させた。大勢の兵隊が周辺を掘り返したが何も見つけることはできなかった。

 怒った隊長は義理の祖父に財宝のありかを白状しないなら処刑すると脅したが義理の祖父は何も知らないと返答。隊長は義理の祖父の頭に米袋をかぶせて、義理の祖父の長男に拳銃を渡して頭を打つよう命じた。長男が拒否するなら義理の祖父と長男の2人ともこの場で処刑すると宣告。逡巡した長男は泣きながら自分の父を撃った。

 長男はそれから酒浸りとなり、発狂して死んだ。義理の祖父が発見した金塊には「999 Gold」および何か漢字らしき文字が刻印されていたという。そんな大事件であれば、戦後マニラ軍事法廷で裁かれたのではないかと筆者が尋ねると、「日本兵はあちこちで若い娘をレイプしたり誘拐したりしたが、中にはよい兵隊もいた。また日本軍に協力していた村の有力者や村に住んでいる日本人に迷惑がかかるから事件のことは戦後も役所に訴えていない」と義理の母から聞いたという。

以上 次回に続く

   
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