すると家康は、涼しい顔で、こういって酒井をなだめたという。
「よいか、忠次。浅井は小勢、朝倉は大勢だ。大勢へ向かうのが勇士の本領ではないのか。ここは黙って織田殿の仰せに従うのだ」
家康が「調整型リーダー」としての本領を発揮した瞬間だった。
いうべきときは、とことんいう。いうべきことは、はっきりいう。だが、相手の言い分にも聞く耳をもち、場合によっては自説を曲げる。そういう融通無碍(ゆうずうむげ)な生き方も家康は是としていたのである。
家臣を「一枚岩」に束ねる
酒井忠次に家康がいった言葉を拡大解釈し、噛み砕いていうと、こうなる。
「お前の言い分はよくわかる。だが、ここはぐっとこらえ、信長殿の言い分を通してやれ。考えてもみろ。浅井のような小勢を相手にするよりは、朝倉のような大勢を相手にする方が武士としてやりがいがあるというものだ。特にお前のような剛の者に何の不足があろう。天は見ているぞ。ありったけの勇気をふるい、目にものを見せてやれ!」
酒井忠次は感激し、自分にこう誓ったに違いない。
「この殿の喜ぶ顔が見たいから、わしは死に物狂いで戦うぞ!」
不屈の闘志は、時空を超える。
「オヤジさんの喜ぶ顔が見たくて、必死で頑張った」
目を輝かせてそういったのは、不眠不休で頑張ってモータースポーツの最高峰F1の頂点をきわめた頃のホンダの技術者たちだった。
筆者がかつて勤務していたソニーの創業者井深大も、「オヤジ」ではなく「名字」で呼ばれていた点こそ違うが、本田宗一郎と同じくらい社員に慕われていた。
「井深さんの喜ぶ顔が見たくて、この商品を開発した」
そんな言葉を宣伝部や広報部にいた頃の筆者は、耳にタコができるほど聞いた。
井深大と本田宗一郎は仲がよく、あるとき本田宗一郎がソニーの大講堂で管理職を集めて講演したことがあったが、そのときの会場がものすごい熱気で包まれていたことは今も鮮明に記憶している。
ソニーやホンダに限らず、「あの人の喜ぶ顔が見たい」と部下に思われる役員や上司が何人もいる企業は強いのではないか。
家康の心にあったのは、不遇を囲った人質時代の〝忍耐体験〟に加えて、祖父も父も内紛が原因で家臣に殺されたという〝痛切体験〟である。
家康は、祖父清康の顔を知らない。家康が生まれる7年前に25歳の若さで死んでいる。
父広忠は、家康が8歳のときに24歳で死んでいる。幼少期から青年期にかけての人質暮らしに象徴される「悲しみや苦悩や屈辱にまみれた負の境遇」を、「正の境遇」へと変えようとしたのだ。それが家康という英傑の一面である。