2024年4月27日(土)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年1月29日

 姉川の戦いで落とせないエピソードがある。夕刊紙の見出し風にいうなら、「あの信長が敵前逃亡!?」ともいうべき逃走劇を演じた一件だ。のちに「金ヶ崎の退(の)き口」として語り継がれる「姉川の戦いの前哨戦」で、信長が信じがたい行動に走ったのだ。

 『松平記』や『三河物語』によると、姉川の戦いの2カ月前の1570(元亀元)年4月、「信長は、家康には何も告げずに27日の宵に撤退、そのことを家康は木下藤吉郎(秀吉)から知らされた」(拙著『家康の決断』より)

 その戦は激戦で、『三河後風土記(ごふどき)』によると、戦死者は浅井・朝倉軍1700、信長・家康軍800となっているが、『朝倉家記』では信長・家康軍1353を数えた。

 姉川の戦いは、「信長が〝反信長同盟〟に与する朝倉義景の征討戦」という言い方もできる。

 反信長同盟とは、信長が奉じて上京し、将軍にしてやった足利義昭が、信長の傀儡(かいらい)にされるのを嫌って、利害が一致した武田信玄、本願寺顕如、朝倉義景らに裏で連携を働きかけて形成した信長包囲網を指す。

 信長は、仕切り直しをした。再び江北に攻め入り、大軍にものをいわせて朝倉・浅井連合を葬り去ったものの、長政や久政への信長の怒りは尋常ではなく、彼らの髑髏(どくろ)を盃にして酒を飲んだというホラーエピソードが伝わっているほどだ。

〝調整型リーダー〟家康の一言

 信長は、姉川の戦いの前日に開いた軍議で、翌日の役割分担を告げた。

「1番合戦(第1陣)は柴田勝家、明智光秀、森右近。家康殿には2番合戦(第2陣)をお願いしたい」

 家康は援軍、いわば客分なので、信長が気をつかったこともあり、妥当な扱いといえたが、家康は不満を表明した。

「是が非でも、第1陣を仰せつかりたい。先陣は我ら徳川勢にお任せあれ」

 信長は、家康の決意のほどがわからなかったから、こう告げた。

「1番も2番も同じではござらぬか、徳川殿。2番といっても、合戦の推移にともなって1番になることも多いのだから、ここはひとつ、2番をお頼み申す」

 信長にそこまでいわれても、家康は承知せず、「加勢を仕る以上、末世まで2番と語り伝えられることは迷惑至極でござる。とにもかくにも、1番陣を仰せつけくだされ。そうでなければ、明日の合戦には出陣いたしませぬ」。

 まるで駄々っ子のような言い草だが、「愚直に生きる」を信条とする家康は、死を覚悟して参戦していたのだ。

 家康が1番にこだわるので、信長の家臣のなかには「家康殿の1番は迷惑」と異を唱える者が出たが、信長は「推参者ども、何を知った風なことを抜かす」と一喝、家康の1番陣が決まったと『三河物語』は記している。

 ところが、『三河後風土記』によると、一夜明けた決戦当日の朝になって、信長は豹変、家康に使いを送って、心中の変化を伝えさせたという。

「昨夜、軍議で決めたものの、わが怨みは浅井長政にあるので、この信長自身が浅井を討たねばならぬ。徳川殿は朝倉を討ってくだされ」

 そばにいた徳川四天王の一人、酒井忠次は、ひらめき重視の〝臨機応変型リーダー〟信長の朝令暮改を知って、不満たらたら。思わず泣きを入れた。

「殿、わが方の兵はすでに浅井勢に向っております。それを今になって急に陣備を変えたりすれば、隊伍が乱れてしまいます」


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