2024年11月22日(金)

田部康喜のTV読本

2023年3月30日

明らかになる現場と中央の認識のずれ

 前後編のハイライトは、事故の最大の危機といわれてきた2号機である。1号機と3号機がメルトダウンを起こした後、予備電源によってかろうじて冷却されていた2号機がメルトダウンを引き起こすかどうか。2号機は3日間持ち堪えていた。さらには、原子力容器を入れた格納容器が爆発する可能性もあった。

 当時の吉田昌郎所長が残した証言はすさまじい。

 「2号機の格納機が爆発したら、放出される放射能によって東日本一帯は人が住めなくなる」

 「(対策に当たっていた所員のうち)誰が私と一緒に死んでくれるだろうか。10年近く一緒に働いてきたやつらだけだろうか」

 1、3号機については、原子炉内の圧力を下げるために、炉内の放射能を含む空気をいったん水に通して放射能を薄めて外部に放出する「ベント」が成功していた。しかし、2号機は、3号機の建屋の爆発によって、ベントの機能が損なわれた。

 3月14日 13:25  2号機の冷却機能が喪失した。

 吉田所長をはじめとする1Fの対策チームはふたつの課題に直面した。

① ベントをどうするか
② 消防車による水の供給をするか

 消防車を活用するためには、SR弁(圧力容器の水蒸気を逃がす安全弁)を開いて炉内の圧力をいったん下げなければならない。しかし、この方法をとると原子炉内の水が水蒸気となって急速に失われる。仮に注水に失敗すれば、原子炉が「空焚き」の状態になる。つまり、メルトダウンが起きて、さらには原子炉格納容器まで破壊される可能性がある。

 ここで、取材班は「現場と東京本社、官邸をはじめとする中央官庁の認識にずれがあった」と指摘する。現場の認識を無視して、「東京」が現場に指示したのである。国会事故調査委員会などでも、これまで問題視されなかった新たな点である、としている。

 「空焚き」を恐れる1Fの現場は、ベントを優先することにした。ところが……。

 3月14日 16:15  当時の原子力安全委員長の班目春樹氏から吉田所長に直接電話がかかってきた。「ベントよりも先にSR弁を開けるべきだ」。官邸にも現場の状況は伝わっておらず、東電の清水正孝社長も吉田所長に「(班目委員長の)要請に従うように」と指示があった。

 吉田所長の証言録によれば、「炉心の水位が徐々に下がっていたので(指示に従うのも)しかたがなかった」と語っている。

 3月14日 18:02  SR弁が開いた。

 それとともにいったんは炉圧がさがった。あとは、消防車から注水を待てばよかった。

 しかし、消防車はガソリン切れで注水作業は止まった。相次ぐ建屋の爆発によって、消防車の点検が見落とされていたのである。

 3月14日 21:08 2号機のメルトダウンが始まった。格納容器の圧力も高まっていった。

 吉田所長の証言である。

 「2号機がダメになればもっと放射能がでますよね。我々は討ち死にしちゃうと。我々のイメージは東日本壊滅ですよ。あとは神様に祈るだけだ」

 2号機の格納容器が爆発を免れたのは、まさに天祐としかいえない。2号機の頭頂部の一部が破損して、そこから蒸気が外部に出た結果、格納容器が減圧されたのである。

 原発事故に際して、対策に当たっている現場の判断と政府の指示の関係は明らかに間違っていた。東日本大震災の対策の指揮官である菅直人首相がみずから、1Fを訪れたのは、3月12日早朝のことである。

 吉田所長に本社から首相が1Fに行くことが告げられたのは、その直前である。東京本社は「総理大臣がそちらにいきます」と。これに対して、吉田所長は「断ることはできませんか? 全面マスクなど、そちらで」。これに対しても本社は「(全面マスクも)そちらで」と。菅首相は、ベントを急がせた。


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