1950年に創部された三菱自動車工業サッカー部を母体とする浦和レッズはJリーグ屈指の人気クラブとして、営業収益もトップを誇る。何より熱狂的なサポーターが支えるクラブとして知られるが、なかなか成績が伴わずにリーグ優勝は2006年の1回にとどまっていた。土田SDはこうした状況を招いている原因として「目先の勝利を求め、求められるなか、明確なコンセプトがなかった」と説明した。
そうした状況を打開するために掲げられた「3年計画」の軸となるコンセプトが「浦和を背負う責任」というもの。そして「チーム=攻守に切れ目のない、相手を休ませないプレー」「個=個の能力の最大限発揮」「姿勢=前向き・攻撃的・情熱的なプレー」という3つのチームコンセプトを選手に徹底させながら、3年間で積み上げていく方針を決めた。
その1年目となる20年は、そうした目標を果たすために、19年途中からの大槻毅監督が継続する形で、チームのベース作りを進めた。現在はJ2のザスパクサツ群馬で監督を務める大槻氏は「さらにする」という表現をしていたが、家作りに例えるならば地面の凸凹をならすような作業(更地にする作業)とも言える。
「ACL出場権獲得・得失点差プラス2桁以上」を目標にしていたが、基本フォーメーションを4―4―2にほぼ固定して、対戦相手によって戦い方を大きく変えることなく、ボールを奪いにいく守備や攻撃ではボールの主導権を握りにいくことなど、ベーシックなサッカーを当時の所属選手たちに植え付けて行った。
コロナ禍でリーグ戦が中断されるなど、色々な意味で難しいシーズンとなった中で、リーグ戦の成績は13勝7分14敗で10位。得失点差も―13となり、成績面では目標を大きく下回ってしまった。ただ、チーム作りを押し進めるベース作りとして、今振り返ればサポーターなどから「3年計画の1年目ではなく0年目だった」とも言われる。20年なくして、現在の浦和レッズを語ることはできない。
2年目の成果と露呈した〝難しさ〟
大槻氏がならした土地に家を築く役割を託されたのが、徳島ヴォルティスを就任4年目にしてJ2優勝&J1昇格に導いたリカルド・ロドリゲス前監督だった。欧州サッカーで主流となっていた「ポジショナルプレー」という概念をもとに、ピッチを俯瞰的に見て、選手の位置的な優位性を元にゲームを支配するサッカーを押し進め、チーム作りに合わせてリストアップした選手を補強した。この年にFC琉球から小泉佳穂、栃木SCから明本考浩、大卒ルーキーとして大久保智明が加入したが、今回のACL優勝を果たす上でも重要戦力となっていった。
そして夏にはフランスの名門マルセイユで活躍していた日本代表の右サイドバックである酒井宏樹が加入している。カタールW杯を翌年に控えていた酒井の獲得は浦和にとっても勝負であり、酒井にとっても大きな決断だった。この年を最後に浦和の象徴的な存在だった阿部勇樹が現役引退、さらに槙野智章、宇賀神友弥といった経験豊富な選手たちがチームを去ることになるが、現在キャプテンを担う酒井は精神的にも重要な存在になっていった。