これに対し、中国の中央アジア諸国に対する影響が明確になるのは1990年代以後のことであった。当初は沿海部から始まった改革開放ではあったが、毛沢東時代に疲弊した少数民族の社会と文化を再建することで少数民族地域・内陸部の改革開放を本格化させる方向性が明確になり、そこに1989年のゴルバチョフ訪中に象徴される中ソ関係の改善が追い風となった結果、1990年代に入ると新疆における国境貿易や相互交流がようやく活発化した。
しかも時期を同じくしてソ連邦の崩壊・中央アジア諸国の独立という一大事件が起こり、ロシア・モスクワも経済的混乱の中でソ連時代ほど中央アジアに対し積極関与出来なくなったことと、1992年の鄧小平「南巡講話」以来の中国高度成長と全方位外交いう流れの中で、中国が中央アジア諸国と急速に正面から向き合うようになった。
急速に弱まりつつあるロシアの影響力
以来中央アジア諸国においては、ロシアと中国の影響のもとで平和と発展が続いてきたかと言えば、必ずしもそうでもなく、むしろ国境紛争や独立後の社会的不安定が続いて来た。この一因は、ソ連時代における民族共和国の国境線の引き方によるものである。
このような中、中央アジア諸国はそれぞれの思惑に基づいてロシアの影響力を重視し、あるいはロシアの存在感を痛感するゆえに距離をとってきた。
例えばタジキスタンにとって、ウズベキスタン領内のサマルカンド・ブハラ・フェルガナ盆地などタジク系の人々が多数住む地域において、タジク語教育が禁止されていることは強い不満であり続けている(タジク語はペルシャ語系であるが、他の中央アジア諸国の言語はトルコ語系である)。一方ウズベキスタンから見ても、タジキスタン側に住む多くのウズベク系の人々が冷遇されていることは強い不満であり続けている。
この結果、タジキスタンとウズベキスタンは、1999年に一時国境を閉鎖するほどの冷戦状態に陥ったこともある。このような状況の下、タジキスタンは概ねロシアを調停者として頼ってきた。
しかし今やロシアには、個別の国々の事情に配慮し調停する能力も余裕も国力も失われた。このため、2022年10月にカザフスタンで開催された旧ソ連諸国で構成する独立国家共同体(CIS)首脳会合の場において、タジキスタンのラフモン大統領がプーチン氏に対し「われわれを旧ソ連ということで一まとめにするな。われわれには独自性がある。尊敬されることを欲する」と言い切ったことは記憶に新しい。
またソ連時代における国境線は、ロシア人が多い地域の一部を他の民族共和国に付与するかたちとなったが、のちソ連崩壊でそれぞれが独立した結果、ロシアがロシア語話者多数地域の再統合と称して、クリミア・ドネツク・ルハンシクなどウクライナ南東部を侵略したことは記憶に新しい。
そこでカザフスタンとロシアの関係が急変した。カザフスタンは、ロシア語話者多数の地域を安定的に保つためにも長年ロシアと友好を保っており、22年1月にカザフスタンで原油価格の大幅引き上げを契機に大規模な反政府デモが発生し、長年独裁を振るってきたナザルバエフ氏が失脚した際にも、トカエフ大統領は旧ソ連諸国が加盟する「集団安全保障条約機構 (CSTO)」を介して、ロシアに鎮圧への協力を要請していた。
しかしその直後にロシアがウクライナに侵略し、ロシア経由の物流と金融が大混乱する中、ロシア語話者が多く住むドネツク・ルハンシクの「独立」をロシアが強行するのを見てとったカザフスタンは、同じ論理がカザフスタンにも向けられる危機を感じてロシアとは距離を置き、対独戦勝記念日を祝うのを止めたほか、「動員」から逃れてきたロシアの人々を多数受け入れている。
一方ウズベキスタンは独立の当初から、タジキスタンのラフモン大統領の背後にいるロシアへの疑念を持ち続け、それは1999年2月のカリモフ大統領暗殺未遂事件で決定的になった。そこでウズベキスタンは早くから北大西洋条約機構(NATO)に接近し、あるいは親欧米の旧ソ連諸国協力枠組みであるGUUAMにも参加するなど、外交関係の多角化を死活的な問題ととらえてきた。