中国の西安で5月19日に開催された中国・中央アジアサミットは、一面ではさまざまな危機を抱えた習近平政権が自らを取り繕う宣伝であったが、別の一面では中央アジアにおける地政学的な地殻変動の結果でもある。既に本稿前編「G7を卑小とし、中国中心の「天下」描く習近平の狙い」で見たように、表向きこのサミットは中国のペースで進み、中央アジア諸国も合わせたように見える。
しかし見方を変えれば、中央アジア諸国が当面中国の強い影響を受けてでも確保しておきたい国益もあり、互いの国益が微妙に重なったところで「密接な関係」が実現したとも言える。そこでさらに、中国と中央アジア諸国の「緊張ある共存」の意味を、歴史的に掘り下げてみたい。
実は馴染み深くない中国と中央アジア
中国側のウイグル・カザフなどの民族と文化的に連続・一体な人々が多く住む中央アジア諸国は、そもそも長年来、ロシア・ソ連の圧倒的影響下にあった。中央アジアの人々は17〜18世紀、モンゴル系・チベット仏教徒の遊牧国家ジュンガルの圧迫に窮する中で次第にロシア寄りとなり、のちロシアの南下で圧迫を受けると、イスラム・近代化・社会主義の色彩を強めた。
またロシアは19世紀、ユーラシア規模で英国と角逐した「グレート・ゲーム」の中、1871年には新疆北部のイリ地方を占領し、のち81年のペテルブルグ条約では、清から新疆での通商特権を手に入れた。
その結果、主に今の中央アジア諸国やロシア領タタールスタンのイスラム教徒商人が利益を得てきた。民国期に入り新疆で軍閥が割拠すると、軍閥は北京や南京から自立するためにロシア・ソ連にしばしば頼り、軍閥に苦しむ人々も抵抗の思想をロシア・ソ連から手にしていた。
新疆が中華人民共和国に組み込まれると、新疆のトルコ系民族の間では、漢人主導でなかば有名無実な「民族区域自治」と比べ、民族共和国の枠組みを持つソ連の連邦制の方がまだ良いという発想のもと親ソ感情が再生産され、しばしばソ連側への大規模越境事件も起きた。改革開放期においても新疆のトルコ系民族は、ソ連崩壊で独立した各共和国が自らの命運と資源の使い道を決める一方、文化的に連続する新疆の側では資源と命運が漢人主導の中共に握られているという不満が高まり、江沢民以後の各政権はこのような発想を「分裂主義」と処断してきた。
したがって中央アジアにとって、中国という国家と中国文化は、もともと馴染み深かったとは言えない。中央アジアと中国との関係は、政治・社会・文化的価値が主に中央アジア側から中国側に流れる一方で、中国ナショナリズム的視点から見ると、新疆は長年来「外部勢力」からの浸透圧にさらされて来た、という評価になろう。