伝達、時間の短縮といった効率よりも、言葉の繰り返し、リズム、音の心地よさを重んじるズールー語も、彼らの時間感覚に近い。まだ初歩段階にすぎないが、この言語について私はそう感じ始めている。
「アフリカンタイム」に見る人類の本質
資本主義の限界を語ったギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスは亡くなる直前、2010年のインタビューで私にこう話した。
「問題はファイナンスが政治にも倫理にも美学にも、我々の全てに影響を与えていることだ。これを取り払わなくてはならない。扉を開こう。それが唯一の解決策だ。今の時代で始め、次の世代へと。金融上の取引、市場が全てではなく、人間同士の関係の方がより大きな問題なのではないかと、私たちは想像することができるだろうか」
「人間同士の関係」。世界見聞より、好奇心より何より、身近な人間との交わりを深めていく。日々の日課のように。
それはもしかしたら、人が生きていく上で一番大事なことで、友人とのネットワークは生き残る上での最後の安全保障にもなる。
人間集団の歴史は約9000年ほど前から語られることが多い。だが、人類発祥の地、アフリカではそれよりも遥か昔、数万年前、数十万年前からさまざまな形の集団生活を続けてきた。
小集団、大集団、集団同士の闘い、集団の崩壊、再び小集団――と離合を繰り返してきた彼らは、意識の底で、人同士の関係、そこに生じる気持ちの大切さに気づいているのではないだろうか。生きる上での一つの知恵として。
次の予定より、効率より、今目の前にいる人間との交流を、何事にも代えられない貴重なものとみなす。そのルーズさから、よそ者に「アフリカンタイム」とバカにされる時間感覚。その感覚にひたり、彼らと同じように語れるようになることで、私は彼らのあり方を知ろうとしている。老教師の境地を自分自身の気持ちを通して、確かめてみたいと思うからだ。
それなら故郷の日本でやればいいではないか。それはそれで別の話。なぜ、自分は日本で同じことができないのか。それについてもきっと自分の中に何か理由があるのだろう。いずれじっくり考えてみたい。