私はソ連崩壊から約4年後の1995年8月にロシアに渡り、現地の大学で約11カ月間の語学研修に参加する機会を得た。新聞記者になって以降も繰り返しロシアを訪れ、現地の実情を見る機会があった。現在も少なくない友人、知人がいる。
彼らが約30年にわたりどのような人生を歩んできたかをつぶさに見れば、ロシアによるウクライナへの全面侵攻が起きたことも「決して不思議なことではない」と感じている。なぜそう感じるか。当時の状況を少し紹介させていただきたい。
氷点下20度の真冬のモスクワで
立ち並ぶ老人たち
1995年のモスクワの冬は、高校時代に地理の授業で習ったとおりの極寒の世界だった。10月ごろから気温が急激に下がり始め、12月にはマイナス20度ほどまで下がった。大学の窓から見える、モスクワの中心部から北西部をつなぐレニングラード大通りを見ると、そこは常に雪景色だった。
しかし、それは多くの市民が現在のモスクワのように暖かい家やオフィスにいて、仕事や生活をしていることを意味してはいない。
「お兄さん、このブドウ買わないかい。〝氷菓子〟にはなっていないよ」
「黒パンはどうだい。安くしておくよ」
「キャベツならうちだって売っているよ。買っておくれ」
大学から最寄りのベラルースキー駅に向かう途中には常に、極寒のなか、何十メートルにもわたって立ち並び、道端で物を売る老人たちの姿があった。
風よけもなければ、椅子があるわけでもない。吹き曝しのなか、薄汚れた分厚いコートや帽子をかぶり、お世辞にもきれいとは言えない袋に入れてきた、いつ売れるかもわからない〝商品〟を両手に持って、道行く人々に声をかけていた。中には、家財道具や、どこから仕入れてきたのかまったく不明の家電のリモコンやコンセントなどを売る人もいた。
彼らがこのような〝商売〟をせざるを得ない理由は明白だ。年金がもらえないか、もらっても生活できるレベルではなかったためである。
ソ連時代は、曲がりなりにも食べることには困らない程度の年金が支給されていたが、ソ連が崩壊すると、その社会保障システムも大混乱に陥った。年金の支給は遅滞が続き、仮に支払われたとしても、急激なインフレでその価値は消えた。
最低限の生活を賄うこともできない年金額を前に、彼らは極寒の中でも、わずかな収入を求めて路上で物を売るほかなかった。