一方、常朝の談話を筆記した陣基は、延宝6年(1678)に生まれ、19歳の時、3代藩主綱茂の祐筆役(文書係)となりました。しかし、32歳のときに休職を命じられ、その翌年、黒土原に常朝を訪ねています。俗界から遠く離れて、ようやくにして真実を探りあてたという常朝、深山に入ってやっとのことで人生を発見したと語る陣基、二人はたちまちにして意気投合しました。
常朝52歳、陣基33歳の出会いです。二人はそれから7年間にわたって談話をし、記録を続けました。こうしてできたのが、世にいう『葉隠』なのです。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」の本当の意味
師匠である一鼎が神儒仏に通じていたことから、『葉隠』にはその影響が濃く出ています。『葉隠』はその意味で日本人にはもっとも適したものです。『葉隠』といえば、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という文言を一番に思い出す人が多いでしょう。ところが、この「死」の意味をめぐって誤解がたくさんあります。
若者を戦地に送り込み、死ぬことを賛美した過去がそれです。しかしそれは『葉隠』の誤用です。『葉隠』は死を奨励したのではなく、生のあり方を逆説的に表現したものです。
どうしてそういえるかというと、「毎朝毎夕、改めては死に」と書いてあるからです。動物の死は、誰がなんと言おうと一回きりです。それを「毎朝毎夕」行えと言っているのです。
ここから『葉隠』で言っている「死」は、「生」のレトリックであることがわかります。これほどわかりやすい表現を誤解するのは、誤解したがる人々がいるからです。優れた古典を自分たちの都合で引用しているのです。自分に都合のよい部分だけを借用しているのです。
徹底して「生」を貫いているのが『葉隠』です。その序文にあたる「夜陰の閑談」にこういう文章があります。
「七生(しちしょう)までも鍋島侍に生まれ出で、国を治め申すべき覚悟、肝に染み罷(まか)りあるまでに候」
七生報国はここから出た言葉です。「七度生まれ変わっても、お国のために尽くす」という意味です。ここからも「死」が単純なる死でないことがわかります。つまり生を強調するためのレトリックであるのです。
「覚悟」というのは思想のことです。生の思想は死の覚悟と並行してきます。なぜなら「いかに生きるか」という問いは、「いかに死すべきか」という覚悟と同時進行するからです。紙の表裏のように切っても切り離せない関係にあります。『葉隠』では死のほうから生を探求したのです。
死神は空気のように目には見えませんが、つねに空中を浮揚しています。隙間を見つけては忍び込んできます。それを追い払う力は覚悟である思想以外にはないと思います。
最後の一歩で踏み留まるには、それなりの力が必要です。私はそのとき、『葉隠』を強く薦めます。各所に生きる力と勇気がわいてくる文があるはずです。きっかけは小さくとも、成果は大きいはずです。300年の風雪に耐えた古典には、そういう力があるのです。