「人生は理屈ではない」と、人はよくいいます。たしかにその通りかもしれません。それでは「人生とは何か」とお聞きします。おそらく答えに窮することでしょう。人生とはそれほど不可思議で定義のしようもないものです。
このように、『葉隠』は、組織のなかでの心がけを記した書なのです。上に触れた酒席でのふるまいに留まらず、上司や部下に対する人心把握の要諦、リーダーとしての心構え、自己啓発としての読書の必要を説くなど、江戸時代に書かれたものであるにも拘わらず、その内容は、現代のビジネスパーソンにとって非常に有益なものばかりです。
現代、仕事盛りのビジネスパーソンたちは、世の中を見るに忙しく、時間が足りません。あれも見たい、これも聞きたいで、時間が超特急で過ぎてゆきます。さらにあちこちにぶつかり挫折したり、とん挫したりもします。その中からいろいろ学び、這い上がっていくのです。ところが這い上がれない者もいます。
2009年7月28日付の新聞を見ると、09年の1月から6月までの自殺者が1万7000人を超えたと載っています。これだと年間最悪の3万4000人になるといいます。毎年一つの市が消えてなくなることになります。
そのうち男性が1万2000人、女性が4800人となっています。なぜ男性のほうがこれほど多いのでしょうか。女性のほうがたくましいのでしょうか。不況がその原因だと書いてありますが、ほんとうでしょうか。
仕事がなく、お金もなく、希望もなくなれば死にたくなります。自分ひとりだけのことを考えれば「死」で問題は解決するのかもしれません。残された家族や友人・知人のことを考えればどうなるのでしょうか。
これほど多くの人が自ら命を絶ちます。政治が、社会が悪いのでしょうか。どうしたらこういう悲惨をなくすことができるでしょうか。失業から自殺へという道筋は少し短絡的なように感じます。その中間に希望というクッションがあるような気がします。人が生きていくのに必要な絶対的条件はなんでしょうか。家も土地も、お金も仕事も大事には違いありません。しかし、それ以上の大切なものがあるのではないでしょうか。
生きる希望を与えてくれる『葉隠』
こういう時いつも思い出すのはユダヤの民とその歴史です。祖国を追われ流浪すること2000年という歴史は多くの示唆を与えてくれます。ローマでは焼き討ちされ、ナチスではホロコーストに遭い、言葉には言い尽くせない悲劇が連続します。家、土地、金、国家まで奪われても失わなかったものがあります。それは「希望」というダビデの星です。これを思うときいつも私は力がわいてきます。自分の悲運は小さいと思うのです。希望とはそれほど大きな力があり、人が生きていく上でなくてはならないものではないでしょうか。
私にとって、ユダヤ人にとっての希望と同じように生きる力を与えてくれるものが、ほかでもない『葉隠』です。ヨーロッパ人には聖書があるといいます。それはそれでけっこうなことですが、私には『葉隠』のほうがピッタシくるのです。
これほど具体的で現実的なものはないと思うからです。空理空論がまったくないからです。どちらがどうという比較はナンセンスではありますが、私にとっては日本語のほうが肌に合うということです。
さて、その『葉隠』のバックグラウンドについて少々触れてみます。『葉隠』は全11巻1343項におよぶぼう大なものです。この書物は、隠棲した佐賀鍋島藩士・山本常朝(じょうちょう)が7年間にわたって口述したものを、同藩の後輩・田代陣基(つらもと)が筆録しました。常朝は、9歳のときに2代目藩主・光茂公の御側小僧となり、その後、光茂が死去するまで33年の長きにわたってお側に仕えています。
常朝の本望は、家老になって奉公することであり、そのための精神鍛錬として、彼は当代一級の儒者である石田一鼎(いってい)について儒学を学び、湛然(たんねん)和尚には禅を学んでいました。湛然和尚も鍋島家の菩提寺である高伝寺の住職で、誉れ高い高僧でありました。しかし、光茂の死後は出家をし、北山黒土原(くろつちばる)の草庵に隠棲します。