─時代が昭和から平成になった直後、六四天安門事件(以下、天安門事件)が発生します。
富坂 私は88年に日本に帰国したため、直接現地の状況を確認することはできませんでしたが、天安門事件のきっかけになった、中国共産党(以下、共産党)総書記・胡耀邦の死と、その失脚の口実にされてしまった86年12月のデモを取材していました。これは、新中国の歴史上、初めて学生が共産党に反旗を翻し、「民主化」を求めて行動を起こしたデモで、これこそが天安門事件の源流です。
そこで私は、「自分たちがこの国を変えていく」という強烈な自負に燃えたエリート学生たちに出会います。デモに参加し、写真を撮られれば、当局から睨まれ、一生を台無しにするかもしれないリスクを背負ってでも、大きな権力に立ち向かっていく姿、そのとてつもない人間のエネルギー、真のエリートの持つ使命感を目の当たりにし、圧倒されました。
当時は、文化大革命の権力闘争の残滓を感じられ、一部ではもう一度あの頃に逆戻りしてしまうのではないかという恐怖もあった。だからこそ、学生たちは胡耀邦を応援していました。
自分は今まで、のほほんと中国を眺めていましたが、その時の衝撃で、「真剣に中国を理解し、この人たちと向き合おう」と心に決め、本格的に取材を始めました。
中村 私は6月4日の当日、北京にいました。たまたまレアメタル、レアアースの仕事で北京に来ていて、常宿の京倫飯店に宿泊していました。蝶理の本社は事態を重く見て、「中村よ、はよ帰ってこい」と帰国命令が出ていました。蝶理の社員は現地スタッフを北京に残し、我先にと帰国していました。しかし、飛行機の予約便はすでに満杯で帰国することができません。
89年当時、レアメタルやレアアースのビジネスが活発でこんなチャンスに現場から離れるわけにはいきませんでした。本音を言うと、怖いもの見たさもありました。「これから中国はいったいどうなっていくのだろう」と。
それでも現地にいる間は怖かったですね。生きた心地がしないというのはこういうことかとも思いました。当日は、一歩も外に出られず、部屋の中でずっとCNNのニュースを見ていました。一流ホテルということもあり、アメリカのニュースは見れたんですね。
京倫飯店の道路側の部屋からは、楊尚昆率いる第五軍区の戦車が天安門に向かって走っていく姿も目撃しました。武力鎮圧の模様は、CNNをはじめ、イギリスのBBCなどによって全世界に中継されており、無差別発砲による市民の虐殺とみなされ、世界中から多くの非難を浴びました。印象的だったのは、武力鎮圧のために進行する中国人民解放軍の戦車の前に1人の若者が勇敢にも立ち、走行を阻止しようとしたことでしたね。あの人はあの後、どうなったのでしょうか。
富坂 それが全く分からないんです。あの映像は、北京飯店の窓からAPの記者が撮影したものだと言われています。彼の名もメディアで複数報じられたこともあったのですが……。
中村 でも、富坂さんは、86年のデモの際、どうやって取材をしたのですか。中国人から情報を得るなんて、当時の日本人には難しかったのではないですか。
富坂 改革意欲に燃えている人、エネルギーの中心にいる人たちから信頼してもらうため、彼らのもとへ足繁く通うことから始めました。
例えば、北京大学には「三角地」という学生が集まる広場があるのですが、よく出かけましたね。そこに共産党を批判する「大字報」という壁新聞が出るんです。それを一字一句書き写すことが私の仕事でした。マイナス10度という極寒の中、2時間くらい立ったまま書き写していると手の感覚もなくなってくるんですが、そういう姿を見た学生たちが同情してくれたのか、「内容を全部教えてやるからこっちへ来い」と、温かい部屋に案内してくれたんです。彼らは、手元に壁新聞がないのに膨大な内容を一字一句正確に暗記しており、驚かされましたね。
また、信頼してくれると「今度この日にデモをやる」などの情報もくれるようになりました。当時、APやロイターなど、他の通信社とのし烈な報道競争がある中、彼らの協力などによって、共同通信が世界に先駆けて第一報を打電することができました。
ただし、代償もありました。こうしたことを続けていた結果、大学からも睨まれ、北京大学には居づらくなり、中退を余儀なくされました。それでも、「世界のニュースが共同通信から始まる」という経験は私にとって忘れがたい一生の財産です。