中村 それはすごい経験をされていますね。私も中国訪問は200回以上を数え、30年来の中国人の友人もたくさんいますが、彼らも同じ人間です。懐に入って信頼してくれれば、さまざまな情報をくれるようになる。富坂さんの意見に全く賛同します。
富坂 こんなこともありました。89年5月、天安門広場で学生リーダーの男女が結婚式を挙げました。これは、世界にも配信されましたが、直後に天安門事件があり、そのカップルは離れ離れになり、「花嫁はどこへ行ったのか」ということが話題になりました。
私は帰国後、小学館の『週刊ポスト』で記者をしていましたが、90年に北京へ飛び、花嫁捜しの取材をしたんです。その時の北京の雰囲気といったら、今の言論封殺どころではありません。みんながびくびくしている状況でした。
そうした中、友人たちに連絡すると、「外国人だから長い間滞在していると危ない」ということで、彼らのネットワークであっという間に花嫁を捜し出し、「南京大学の学生でいまも南京で暮らしている」ことが分かったんです。すぐに南京へ向かうと、その女性はパソコン販売店の事務員をしており、ごく普通の暮らしをしていました。一方、男性はアメリカに行ってしまっていたことも分かりました。
日本人の私にリスクを冒してまで情報をくれ、しかも、謝礼を渡そうとしても「いらない」「俺たちの気持ちを金で買おうとするなんてバカにするな」と言って全く受け取らないのです。当時、週刊誌の記者をやっていた私にとって、これは日本ではあり得ないことだと思いましたね。中国は日本と違い、「予測不能な国」であり、ますます興味を持つことになりました。
─天安門事件における中国共産党の対応と、その後の中国の経済発展をどう見ていますか。
中村 鄧小平が戒厳令を発動して、6月3日の夜、天安門広場に戦車と部隊が出動し、4日の朝にかけて、武器を持たないデモ参加者たちに向けて発砲し、多数の死傷者が出たことは紛れもない事実です。しかし、当局は後日、発砲による死者はゼロだと説明していました。中国政府はこれまで、デモの参加者の死者数を明らかにしていませんが実際には1万人にのぼったとも言われています。
死者ゼロはフェイク情報であり、私は当時、「もう中国との取引はやらない! 民主化運動をあのような形で圧殺したのは許せない!」と怒っていました。会社としては中国との取引を続けることになりましたが、私はすべての業務を部下に渡しました。
その後、「中国はもうだめになる」と思い、夏過ぎに、東西ドイツを放浪しました。その後、11月にベルリンの壁が崩壊し、91年にはソ連も崩壊しました。どういうわけか、その時も現場にいたんです。
このような言い方は適切ではなく、不謹慎かもしれませんが、私は毎回「いる」というよりも、商売上の勘が働くんです。「今やな」と。「今、楔を打っておいたらゆくゆくは大きな商売になる」という感覚が働くと言った方が正確かもしれません。でも会社には迷惑をかけ、大騒ぎです。「中村、いいかげん、帰って来い」と。中国の場合、飛行機が止まっている期間は短かったですが、ロシアの場合は完全停止で全く帰れない。モスクワ脱出のため、ウズベキスタンの首都タシケント、キルギスの首都ビシケクなどを経由し、タイに脱出しました。
そして、結局、中国のビジネスにも復帰しました。苦渋の決断ではありましたが、今、その判断は間違っていなかったと思っています。
富坂 私も中村さん同様、「中国は終わった」と思いました。しかも、その後、東欧革命で社会主義政権が次々に崩れ、最後にソ連崩壊がありました。もうこれで、中国は立っていられる余地はないだろうと。
ところが1992年、鄧小平による「南巡講話」で、新たな号砲が鳴らされると、中国人は驚くほどの変化で、商売に向かっていったわけです。その変化の一つとして、取材の謝礼を受け取らなかった人たちも「いくらくれるのか?」と聞くようになったんです。この変化には私もすごく戸惑いました。ただ、「中国は終わった」と思っていたのに、共産党は、この国を発展させ続けた。そのやり方に関して、日本国内ではさまざまな意見があるのは承知していますが、結果として、人々の暮らしは豊かになった。天安門事件で改革意欲に燃えていた私の同級生たちも、その現実を、どう自分の中で消化すべきか悩んでいましたね。
天安門事件に至るまで私は、使命感に燃え、行動する中国人をたくさん見てきました。しかし、共産党は地に足をつけて、いわば相撲で言う「押し出し」のような形で、そうした人たちが有無を言わせぬ状況をつくりあげたのです。
だから、彼らにとってはある種の「敗北感」を覚えつつも、発展していく中国の豊かさなどは享受する。でもその一方で、やっぱり天安門事件の時に声を上げた自分たちの姿も忘れられない……。こういういくつかの複合した、あるいは、矛盾した思いを抱えたまま、経済発展にひた走ってきたのが天安門事件以降の中国です。南巡講話とは、中国人にとって「欲望の開放」でもあったと言えるのかもしれません。
中村 中国人が一番弱いのはお金です。多くの中国人はお金に執着します。多くの中国人と付き合ってみて分かったことは、彼らには会社への忠誠心も、愛国心もなく、信じるものがお金しかないということでした。
※こちらの記事の全文は「Wedge」2024年6月号で見ることができます。