平成の時代、日中関係にはさまざまな転機があった。現代中国が専門のジャーナリストの富坂聰氏と日本初のレアメタル専門商社を設立した中村繁夫氏に日中の過去と未来を聞いた。
今、なぜ、平成という時代を振り返る必要があるのか?(前編)
今、なぜ、平成という時代を振り返る必要があるのか?(後編)
編集部(以下、─)お二人の中国との出会いはどのようなことがきっかけだったのでしょうか。
富坂 私は中国に留学する前、16歳で台湾に渡りました。その頃の私は中華文化圏に全く興味はありませんでした。当時、素行不良で反抗的だったので周囲ももて余していました。だから「大検」を取ったタイミングで放り出されたんです。つまりたまたまたどり着いたのが台湾であり、そこで中国語を一から覚え、84年に中国へ行き、その後北京大学中文系に入学しました。
ある日、とある作家の小説を読んでいると、「ふらっと母国を出て、ふらっと現地の新聞社の支局を訪ねる」というシーンに目がとまり、直感的に「自分もやってみたい」と思ったんです。そこで、共同通信社の北京支局にアポなしで訪ねました。そこには当時の特派員で、後に作家となる辺見庸さんがおり、自分の熱意を買ってくれたのか、アルバイトの記者として、仕事をさせていただくことになりました。そこから私は、さまざまな中国人と出会い、以降の中国社会の大きな変化を目撃することになったのです。
拓殖大学海外事情研究所 教授
1964年愛知県生まれ。北京大学中文系留学後、週刊誌記者などを経てフリージャーナリストに。94年『「龍の伝人」たち』(小学館)で、21世紀国際ノンフィクション大賞(現・小学館ノンフィクション大賞)優秀賞を受賞。各種媒体への執筆、テレビコメンテーターとしても活躍。(写真:さとうわたる以下同)
中村 私は2004年に日本で初めてレアメタル専門商社のアドバンストマテリアルジャパンを立ち上げる前、中堅商社の蝶理に勤務していました。私が初めて中国に行ったのは蝶理入社後の1979年、日中平和友好条約が締結された直後のことでした。経済的な後進性が目立っていましたが、中国人のエリートたちからは「なんとかして先進国に追いつきたい」という思いがひしひしと伝わってきました。
当時の中国人は本当に貧しかった。靴すら履いていない一般人がおり、多くの人々はもっぱら自転車で通勤していました。軍人がトラックに乗せられて移動する光景もよく見ました。
でも、私はあの頃の中国が好きです。貧しくても、知的な人が多く、日本人にも優しかった。蝶理の仕事で交渉が終わった後には、中国流の宴会が待っていました。教養の高い彼らは好んで「漢詩」を吟じたり、七言絶句の書をしたためたりしてもてなしてくれました。貧しかった中国が今や世界第2位のGDP(国内総生産)を誇る国となりました。隔世の感があります。
UMCリソーシズCEO
1947年京都府生まれ。30年間、蝶理のレアメタル部門で輸入買い付けを担当。2004年、MBOでアドバンストマテリアルジャパンを設立。日本初のレアメタル専門商社を立ち上げ、年商700億円企業にまで成長させる。社長、会長を経て現職。