2024年11月22日(金)

君たちはどの主義で生きるか

2024年7月23日

あたなは「英語を話せますか?」

 さらに次です。テストの点数などで絶対評価を受けがちな「自分は勉強ができるかできないか」の認識なんかも、尺度次第で変わったりするのです。

 語学を例にしてみますが、「英語を勉強している日本人」って、自分で「僕、英語喋れますよ」とはまず言わないものです。日本人の英語学習者100人に「Do you speak English?(英語喋れる?)」と聞けば、98人は「I can’t speak English!(喋れません!)」と胸を張って自信満々に答えることでしょう。

 私もそうです。かれこれDMM英会話を2年間続け、レッスンではたまにスラスラ喋ることもありますが、「英語喋れる?」と問われたら、答えは迷わず「I can’t speak English!」です。たとえあと40年DMM英会話を続けたとしても、87歳になった私は「I can’t speak English……」と遺言を語りながら死んでいくことでしょう。

 なぜかというとまず、日本人は謙虚なんですよね。「自分はできる奴だぜ!」という態度を出すと顰蹙を買いかねない、謙遜を美徳とする文化に我々は生きているため、自分で「I do speak English!(俺は喋れるぜ!)」とはなかなか言えない。

 その上でさらに、多くの日本人は「英語が喋れるかどうか」を判断する時に、海外の映画やドラマを尺度にしてしまうんです。あるいはアメリカ大統領の記者会見とか、BBCニュースとか。

 そんな厳しい尺度を設定してしまうから、我々は「英語学習年数」と「『I can’t speak English』を言い続ける年数」が永遠に同じ、という悲しい事態を招いてしまっているのです。

 しかし、それが外国の人だとまた違う尺度だったりするんです。

 私は一時海外を貧乏放浪していたことがあるんですが、例えばインドなどでは、尋ねてもいないのに「アイ キャン スピーク ジャパニーズ!(俺は日本語が喋れるぜ!)」と得意気に主張して来るタクシーの運転手なんかがいたりします。そこで「えっすごいですね、じゃあなんか喋ってみてくださいよ」と求めてみると、運転手さんは唐突に「ナカター‼ テリヤキーー! ソンナノカンケーネー、オッパッピー‼」と大声で叫び、それで終わりだったりします。いやそれだけかよっ!!! と、さすがにこちらもツッコまさせられるという。

 でも、私の尺度では彼は「日本語喋れない人」ですが、彼の尺度では彼は「日本語喋れる人」なんですよね。人間は万物の尺度なのだから、彼の尺度で測れば彼は日本語が喋れるんですよ。そこに正解も間違いもないんですよね。……………。まあ、いったい彼はなにを尺度に設定したのかはちょっと聞いてみたい気がしますが……。そのへんの牛を尺度にしたんですかね?

 余談ですが、インドのお隣のパキスタンやイラン、バングラデシュなどの国では本当に「日本で働いていたことがあるので日本語ペラペラの人」によく出会いました。ただ、「日本で働いていたことがあるので本当に日本語ペラペラの人」は、「うわー日本語お上手ですね!」と褒めると、意外と「いえいえ、ワタシの日本語はまだまだデスよ」と謙遜したりするんですよ。

 「日本語」と「日本人的な謙虚さ」みたいなものって、きっと分割不可能で、抱き合わせで習得されるのではないかと思います。だから日本語ペラペラのイラン人やパキスタン人は謙虚で、一方で日本語喋れないテリヤキ運転手とかは「俺は日本語が喋れるぜ~!」とおごり高ぶって言えてしまうのでしょう。まあ尺度は人それぞれだから言っても全然問題ないんですけどね……。

 相対主義が生まれた当初、つまり古代ギリシア時代には、「自然の事象に相対主義を適用するのは難しい」と考えられていました。例えば「太陽が昇る時間や沈む時間は誰にとっても同じ=絶対的」のように。

 ところが、アテネ市民の中では日の出や日没の時間が同じでも、他の大陸に住む人にとっては違います。実は地球は丸かったので、時差があるんですよね。アテネの人々が絶対的だと信じて疑わなかった太陽の昇る時間すら、実は相対的なものだったわけです。


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