ただし、しだいに空海は本拠を東寺に移すようになり、神護寺は弟子の真済(しんぜい)に託された。真済は承和2年(835)に宝塔を建立し、塔内には五大虚空菩薩像が安置された。
数多くの寺宝が神護寺に引き継がれている
だが、10世紀末頃からは荒廃をはじめる。12世紀後半には、後白河法皇の援助を受けた文覚(もんがく)の尽力によって諸堂が復興されたが、戦国時代には兵火により伽藍が焼失。江戸時代には復興されたが、明治維新時には寺領が上知令(じょうちれい)によって解体され、ふたたび衰えた。明治なかばからは堂宇の修理が行われて徐々に復興がはじまり、現在に至っている。
現在の建物のほとんどは江戸時代以降の再建。金堂に安置されている国宝の本尊薬師如来立像は一木造りの重厚な古像で、神願寺から移坐されたものともいわれている。
多宝塔の五大虚空蔵菩薩像(秘仏)も国宝で、承和7年頃の作だという。大師堂(重文)は桃山時代(1573~1614)の再建だが、空海の住房・納涼房の後身だといい、住宅風の造りをもつ。鎌倉時代の作だという珍しい板彫りの弘法大師像(重文)が本尊である。山内には和気清麻呂や文覚の墓もあり、紅葉の名所として名高い。