2024年11月22日(金)

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2024年7月25日

揺籃期の真言密教の本山だった神護寺

 高雄山寺時代の歴史をみると、平安遷都後しばらくは天台宗開祖の最澄がこの寺と深く関わっている。

 延暦21年(802)、和気弘世・真綱兄弟は、比叡山寺(延暦寺の前身)の最澄と南都奈良の高僧十余人を高雄山寺に招き、天台教義を講じる法会を催した。長期にわたって行われたこの講会の評判は桓武天皇の耳にも届き、講説者として中心的な役割をはたした最澄は、日本における天台仏教の第一人者としてその名が知られるようになり、これが2年後の入唐留学につながっている。

 延暦24年9月、唐から帰朝した最澄は、桓武天皇の勅を受けて高雄山寺で密教の灌頂(かんじょう)を執り行った。これを機に、高雄山寺は密教寺院としての性格を強めてゆく。

 そして大同4年(809)7月頃、最澄より遅れて帰朝したのち数年九州に滞在していた空海が、高雄山寺に入山した。これ以後10年あまり、空海はここを拠点に密教宣布と真言宗立宗に取り組んだ。

「真言八祖像のうち空海」(奈良国立博物館蔵、国立文化財機構所蔵品統合検索システム)

 弘仁3年(812)、空海は高雄山寺にて、最澄や真綱ら多くの僧俗に金剛界・胎蔵両部の灌頂を授けた。これは空海にとっては、日本における公開的な密教行事の最初となった。このときの記録である空海自筆の『灌頂歴名』は神護寺に今も伝えられている。すでに高雄山寺の空海のもとには多くの弟子が集っていたらしく、この頃寺に三綱(さんごう/三種の役僧)が置かれ、寺院としての機構が整えられている。

 弘仁7年には南都の有力僧勤操が名僧を率いて高雄山寺に上り、空海から三昧耶戒(さんまやかい)と両部灌頂を受けた。高野山と東寺が密教道場として確立されるまでは、ここ高雄山寺こそが空海密教の本山だったのだ。

 そして前述したように天長元年(824)に神護国祚真言寺(神護寺)と改められ、同時に定額寺(じょうがくじ/官寺に準じた待遇を受け、鎮護国家を祈る寺)となった。そしてあらためて空海に付嘱され、明確に真言密教専修の寺院となり、護摩堂・灌頂堂などが建てられていった。


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