この治療アイデアは03年頃に思いつき、20年近くかけて研究、開発、治験を経て、20年9月に日本で薬事承認され事業が本格化した。治療は保険適用になるため、費用負担も少なくて済む。
いま日本では国立がんセンター東病院をはじめ、160施設でこの治療を受けられ、頭頚部などの進行がんの患者約300人がこの治療を受け、治療法がないと言われてきた患者には朗報になっている。
退路を断って
二度目のNIH
しかし、これまでの道のりは平坦ではなかった。京都大学医学部卒業後、がんの放射線診断・治療の臨床医を4年経験し、患者の苦しみを目の当たりにしたのが原点だった。
1995年に34歳で渡米してNIHに行くも、当時のアイデアでは全く歯が立たないことを実感、3年半の任期を終えて帰国。京大の助手として、病院での診療・教育、勤務医のアルバイトをしながら自らの研究に取り組んだが、忙しさのあまり満足な研究はできなかった。
研究への思いを捨てきれず、京大でのキャリアを放棄して、2000年に再びNIHに向かうことを決める際には、上司の教官からは「無謀だな」と諭された。
渡米後、同門会名簿では行方不明者扱いになったという。当時は、象牙の塔の医学会では、上司の勧める道に逆らうことは「異端児」と見なされ、医局では生き残れなくなる。二度目の渡米は、大学での昇進を諦め、退路を断ってのものだった。
「研究はスポーツと似たところがあります。世界のトップ近くに身を置き続けなければ、競争に勝つことはできません。一度、長期間休んだら、世界のトップに追いつくのは至難の業なのです」
小林氏はこう断言する。しかも、当時はまだ研究をやり切った感じはなかったという。
NIHではすぐに自分の研究に専念できたわけではなかった。「三軍からスタートでした」と、小林氏が振り返るように、当初は自分が所属する研究室のプロジェクトをこなしながら、深夜から自分の研究をこなすという厳しい研究環境だった。
それでもくじけなかったのは、「研究者としてまだやり残したことがある」という信念とも言えるこだわりがあり、「このままでは諦められないという気持ちが勝っていたから」と小林氏は言う。
09年頃に、東京大学医学部教授への誘いがあったが、政権交代による事業仕分けで研究費が得られなくなったため、完成形に近づいている光免疫療法の研究を滞らせるわけにはいかないとして辞退した。
「東京大学の教授という、日本の研究者としては最高の職を諦めてでも最速で研究を続けたいからこそ、長年の研究がこのような形で結実しようとしています」と、話す小林氏には、この治療法を何としてもきちんとした形で後世に残しておきたいという情熱があふれている。
世界で認められる
研究成果
これまでの研究成果が挙げられた理由としてNIHの自由度の高さを挙げる。しかし、そこには同時に常に厳しい業績審査があり、これをクリアしないとNIHの席がなくなる。日本の大学教授のように、いったん教授となると基本的には安泰という安易なポストではない。それだけに、常に緊張した競争状態の中で研究成果を挙げ続けなければならない。
「米国に職を求めてくる日本人は、私のように学位を取ってからではなく、大学卒業後すぐに渡米し、たたき上げる学生が増えてきているような気がします。
コロナ禍の頃はNIHの日本人終身主任研究員は10人未満でしたが、最近は若い人が、一定の任期期間で採用され、その期間の業績を審査して合格すれば終身雇用(テニュア)を与えられるテニュアトラックという形で、NIHに来る人が増えてきているのは喜ばしいことです」