フィリピンの対米独立闘争と日本人義勇兵
ドゥマゲティの民間戦争博物館のオーナーのカタル氏(『「生きてこそ大和櫻」太平洋戦争、ネグロス島東部の戦い』ご参照)が語った米西戦争以来のフィリピン人の反米感情と明治の日本の独立支援の話を思い出した。
ホセ・リサールが銃殺されて2年後の1898年米西戦争が勃発。混乱に乗じてホセ・リサールの薫陶を受けていた独立闘争リーダーのアギナルドが独立を宣言(第一共和国)し初代大統領に就任するも新たに米国がフィリピンを植民地化。
アギナルドの革命政府は1898年日本に支援要請。日本政府は対米配慮より支援できず、代わりに民間有志から武器弾薬が送られ陸軍予備役士官5人と在フィリピン邦人300人が義勇兵として革命政府軍の対米闘争に参加。しかし革命軍は破れアギナルドの盟友リカルテ将軍は日本に亡命した。
日本軍占領下でのフィリピン独立
太平洋戦争で日本軍が米軍を駆逐してフィリピンを占領すると75歳のリカルテ将軍はフィリピンに帰国。1943年10月に日本は軍政を廃し対日協力派のラウレルが大統領に就き独立を宣言(第二共和国)。
国会議長はベニグノ・アキノ。彼の息子がマルコス大統領配下に暗殺されたベニグノ・アキノ二世。その妻がコラソン・アキノ元大統領、さらにその息子がベニグノ・アキノ三世元大統領である。
ラウレル大統領は1943年東京で開催された大東亜会議にインド、満州、ビルマ、タイなどの代表と共に出席している。日本の敗色が濃厚になると駐比大使であった村田省三は懇意にしていたラウレル大統領、アキノ国会議長家族を日本に亡命させた。
ラウレルは戦後しばらくして政界に復帰、日本との賠償交渉の首席となったが日本の代表は奇しくも村田省三であった。お互いを信頼する双方の代表により交渉は進められた。
戦後初のフィリピン共和国の大統領となったロハスを救った日本軍人
ロハスは太平洋戦争緒戦でフィリピンに上陸してきた日本軍に対してフィリピン軍を率いて戦ったが破れて日本軍の捕虜となった。マニラの日本軍司令部は危険分子として処刑命令を出したが、取調べで面談した神保信彦中佐はロハスが反日分子ではなく純粋にフィリピン独立を望む愛国の志士であることを見抜き司令部を説得し処刑を撤回させた。
戦後1946年7月にロハスは大統領に就任してフィリピンの3回目の独立を宣言した(第三共和国)。神保は戦争末期に北支戦線に転属。敗戦により国民党軍は戦犯として拘束。
神保の夫人が窮余の一策でロハス大統領に助力嘆願の手紙を送った。ロハス大統領は蒋介石主席に神保中佐の人柄と人道的行為を綿々と綴った助命嘆願親書を送った。まもなく蒋介石の指示で釈放された神保は1947年無事帰国。
品川駅で報道陣に囲まれた神保は「地上の権力はいつか滅びるが、真の友情は永遠に続く」と名言を残した。
1962年の皇太子夫妻のフィリピン訪問とホセ・リサールの遺産
現在の上皇ご夫妻は皇太子時代にまだまだ反日感情がくすぶるフィリピンを親善訪問。空港到着時の挨拶でフィリピン人なら誰でも知っているホセ・リサールの有名な辞世の詩を引用して「貴国の英雄の言葉に従えば『東洋の海の真珠』(フィリピンを指す)を自分自身の目で見るのが宿願でした」と切り出した。
さらに歓迎晩餐会では「昨年(1961年)のホセ・リーガル博士の生誕百年を祝して東京の中心(日比谷公園)に博士の記念碑が建てられました。この記念碑は自由と独立の大義に一命を捧げた博士の……に対して日本国民の心からの尊敬をあらわすものです」とスピーチ。
こうした皇太子の言葉がメディアで伝えられるとフィリピン国民の間に皇太子夫妻を歓迎するムードが広がって行ったという。当時ホセの遺稿が発見され日本滞在の様子やホセの見た古き良き日本を人々が知ることで更に好意的感情が生まれたようだ。ホセは日本滞在中に手紙や日記で「日本人は温順・平和・勤勉な将来性のある国民である」「日比両国は緊密な関係を持たねばならぬ」と記していた。
さらに皇太子夫妻は病気静養中の当時92歳のフィリピン初代大統領アギナルドを自宅に見舞っている。アギナルドは19世紀末の対米独立戦争で日本から受けた支援に感謝を表明した。
当時のフィリピンのメディアによると皇太子夫妻の親善訪問は予想外の好意的反響を呼び友好親善ムードが広がったとある。
以上 了