2025年12月5日(金)

深層報告 熊谷徹が読み解くヨーロッパ

2025年6月20日

 「オペラ作戦」と名付けられたこの攻撃によって、イスラエルは原子炉に大きな損害を与え、建設計画を頓挫させた。この原子炉はフランスとイラク間の協定に基づいて、79年から建設されていた。イラクは原子炉の建設目的を科学的な研究のためと説明していたが、イスラエルの諜報機関は、「イラクが核爆弾に使用するプルトニウムを製造しようとしている」という情報を得ていた。

イスラエル政府は、「敵国が核開発を行っている場合、イスラエルは先制攻撃を行って核施設を破壊する」というベギン・ドクトリンを持っている(エルサレムにて筆者撮影)

 イスラエルのベギン首相は爆撃の2日後に行った記者会見で、この攻撃を「自衛手段」として正当化した。 「我々が先制攻撃をためらっていたら、イラクによる核攻撃を防ぐチャンスは永遠に失われていた。我々が何もせずにいたら、サダム・フセインはあと数年で、3個から5個の核爆弾を保有していたはずだ。そうなった場合、イスラエル人は殲滅される。つまりホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大量虐殺)が再び起きる。我々はホロコーストの再来を絶対に許さない!」。

イラクの反撃で自国の戦略を〝正当化〟

 79年から03年までイラクの最高指導者だったサダム・フセインは、イスラエルの原子炉爆撃の直後には、報復しなかった。

 しかしイラクは10年後にイスラエル攻撃に踏み切る。サダム・フセインは90年8月にクウェートに侵攻した。これに対し91年1月に米国を中心とした多国籍軍が「砂漠の嵐」作戦を発動し、イラク軍に対する攻撃を開始した。

 するとサダム・フセインは報復として、イスラエルのテルアビブやハイファなどに「スカッド」型弾道ミサイル88発を撃ち込んだ。イラクは多国籍軍に対する正面戦闘ではかなわないことから、地理的に近い米国の同盟国イスラエルを攻撃した。

 イスラエル人74人が死亡し、230人が重軽傷を負った。

 ベギンは「イラクがスカッドで我が国を攻撃したことは、我々のオシラク原子炉の破壊が正しかったことを証明している」と述べた。「自分たちが81年の先制攻撃によってイラクの核兵器保有を防いでいなかったら、サダム・フセインは核を搭載した弾道ミサイルでイスラエルを攻撃していたはずだ」と主張した。

 イスラエルの全ての企業には、ガスマスクや水、食料を備蓄した窓のないシェルターがある。筆者が見学したシェルターのドアは、ゴムで目張りがされていた。万一化学攻撃を受けても、内部に毒ガスが入らないようにするためである。


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