なぜ復元を望むのか。誰もが思うのは観光資源としてだろう。首里城は、沖縄を訪れる観光客にとって大きな見どころである。
23年度の入園者数は144万人。首里城復元工事そのものを見せる観光も行われていた。それだけに経済効果は非常に大きい。
だが、それ以上に重要なのは、首里城を目にできる形で存在させることで、琉球王朝の文化や歴史をイメージしやすくなることだ。それは沖縄人の誇りの醸成にもつながる。
ただ文化庁は歴史的建造物の復元基準を設けている。簡単に言えば、可能なかぎり以前と同じ構造や外観にしなければならない。そこで失われる前の姿を遺物から調べることから復元作業は始まる。
平成の復元では1715年に建てられた首里城をモデルとしたが、資料は十分でなく正殿の屋根瓦や柱の色も定かでなかった。今回の令和の復元では、より研究を進めて前回以上に戦前の姿に近づけようとしている。
たとえば木材は、平成の復元でタイワンヒノキを主に使ったが、今回は国産ヒノキを中心にイヌマキ、オキナワウラジロガシなどが使われる。また外観は、前回市販されている弁柄(べんがら)で赤く塗られたが、琉球の色と違うと指摘されていた。
そこで幻の沖縄産の久志間切(くしまぎり)弁柄を再現して、少し茶がかった深みのある赤となった。ほかにも彫刻や織物、染め物、陶芸など、琉球王朝時代の工芸品が再現されている。
再建作業で掘り起こされる技術
歴史的な建造物の復元には、常に「本当の姿は何か」が問題となる。奈良県の平城宮は1200年前に長岡京に遷都してから原野となり、明治に再発見された頃は水田だった。当時の建物については、写真はもちろん絵もなく文献も非常に少ない。構造だけでなく外観さえわからなかった。それなのにいかに復元するか。
まず礎石の調査から柱の数を割り出し、建物の寸法や構造を読み解く作業が行われた。さらに同時代の寺社建築などを参考に、当時の建築工法と姿を想定した。
わずかな証拠を重ねて朱雀門や大極殿の姿を導き出すのだ。それは建築技術史の研究でもある。おかげで奈良時代の建築技術が解明される契機にもなった。
