2025年12月5日(金)

終わらなかった戦争・後編サハリン

2025年8月16日

 サハリンに残留を余儀なくされた多くの日本人。もしも、自分がその当事者であったら――。日本への永住帰国を果たした2人が語る交流と、今後、求めるものとは。 

戦前は樺太への出発地として、終戦時には引き揚げ者の上陸地として使用された「稚内港北防波堤ドーム」への案内標識。ロシア語でも表記されており、稚内の歴史が感じられる(WEDGE以下同)

家族が離れていても
海を越えつなぐ交流

大段春子さん(78歳) 2005年に永住帰国

 私は日本に帰国し、一命をとりとめました。乳がんの際のがん細胞が子宮に転移しており、2005年に永住帰国後、すぐに手術して事なきを得たのですが、もしサハリンにいたら、今頃どうなっていただろうと思います。

 10人兄弟の7番目の私は1947年、サハリンに生まれました。サハリンの山ではコケモモ、行者ニンニクなどが採れました。サラダオイルがないため、ゆでて食べたのを覚えています。

 サハリンになってから、家の中では日本語を使用しながら、外ではロシア語を使い、学校では英語、ロシア語、朝鮮語と様々な言語を教えてもらいました。高校卒業後は、46歳までサハリンで英語の先生として働きましたが、自分の仕事が終わっても子どもたちの面倒を見るために帰れないなど、大変なことも多かったです。

 私は戦後生まれだったので、国の支援では永住帰国できないと思っていました。しかし、両親が日本人であることが証明できたので、日本に永住することができました。

 私たちの世代までは日本の文化を知っている人が周りにいましたが、ペレストロイカ以降に生まれた世代は日本文化になじみがありません。また、ソ連時代は日曜日に公園のゴミ拾いに駆り出されましたが、ロシアになってからはそうしたことがなくなり、多くの人が「お金、お金」と言うようになり、格差が見られるようになりました。

 ロシアにいる息子や妹たちとは毎日テレビ電話で話をするのが楽しみですが、直行便がなくなって、なかなか会えなくなってしまいました。1日でも早く、自由に往来できるようになってもらいたいものです。


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