2025年12月5日(金)

Wedge OPINION

2025年9月4日

 稲嶺氏の任期中、福建省長は、あの習近平・国家主席だった。習氏は01年2月、代表団を連れて沖縄県庁を訪れ、稲嶺氏は翌年、福建省で習氏と会った。

 稲嶺氏は「だいぶ後にわかったが、実は、習さんは1991年に那覇に出張で来て、那覇市のことを調べていた。私と会った時には一言も触れなかった」と語り、腹の読めない習氏の態度を「当時から大物感があった」と振り返る。

 習氏が沖縄に関心を持ち続けていることがはっきりわかったのは、2023年6月のことだ。中国共産党機関紙・人民日報が「福州で勤務していた際、琉球との交流の根源が深いと知った」とする習氏の発言内容を伝えた。同紙がわざわざ1面で報じたことで、習氏は沖縄への関与、そして影響力行使に強い関心があるようだ、との見方が広がった。

沖縄と米国、日本本土との
間に「和解」は深まるか

 そんな沖縄にとって、米国との関係で起きたまず最大の出来事は、太平洋戦争末期の1945年の沖縄戦であった。住民を巻き込んだ激しい地上戦では、日米、軍民双方で約20万人が犠牲となり、沖縄県民の約4人に1人が命を落とした。

 終戦後27年間の米統治時代を含む米国との関係史は、ここで尽くせないほど過酷なものが多い。70年に起きたコザ暴動では、米軍関係の車両に次々と火が放たれ、県民の反米感情が爆発した象徴的出来事となった。

 だが、72年の本土復帰から半世紀余がたった今、世代の移り変わりも反映し、過去の歴史に対する「反米」意識は弱まっているようにみえる。2000年7月には、九州・沖縄サミット(主要国首脳会議)出席のため、本土復帰後初めて現役大統領として沖縄を訪れたビル・クリントン氏が沖縄戦の遺族と握手をした。沖縄と米国の和解に向けた象徴的なシーンだった。

 その一方、在日米軍施設の約7割が、日本全体の面積の0.6%の沖縄に集中する現状はあまりにバランスを欠いている。これは「歴史」ではなく「現在」の大きな課題だ。

 各基地の周辺では騒音被害などが〝日常〟であり、米兵による事件事故も隣合わせだ。仮に周辺の住宅地に軍用機が墜落するような大事故が再び起きれば、県民のマグマは、95年の米兵による少女暴行事件をきっかけに広がった反米軍基地運動の時と同様、再び噴き上がるだろう。つまり、米国との関係は〝ガラスの和解〟なのである。米国との幅広い「和解のくびき」となっているのが、やはり基地問題だといえる。

 一方、本土との和解は、より難しい課題が多い。イデオロギーが和解を難しくしている。そのルーツは、沖縄戦よりさらに前の「琉球処分」(1879年)の歴史までさかのぼる。「琉球処分」は、明治維新に伴い、「琉球王国」が「琉球藩」となり、「沖縄県」となった出来事だ。それまでの琉球王国は、中国の清朝に朝貢し、一方で、日本の薩摩藩の支配も受け入れ、いわゆる「日清両属」の形でしたたかに交易を行っていた。この状況に対し、明治政府が「琉球は日本の領土である」と内外に表明したのが琉球藩の設置だった。

 この時の明治政府の手法が強権的だったとして、「琉球処分」は、150年近くたった現代でも、本土と沖縄が対立する時、沖縄側から折に触れて引き合いに出される。沖縄や韓国などの歴史家の間では、「琉球処分」は、日本による「植民地支配」の第一歩だった、とする指摘も多い。「沖縄は歴史的に差別されてきた」という歴史認識の原点といえる。

 冷戦終結後も、自民党政治に対抗する左派系イデオロギーが沖縄には色濃く残った。現在は、米軍普天間飛行場移設問題が沖縄県と政府の対立点の象徴となっている。

 来年には沖縄県知事選が行われる。その時々の沖縄県政の政治スタンスが保守系か左派系かにも左右されるが、大きな流れとしては、沖縄も〝脱イデオロギー〟が進みつつあると感じる。重要なことは、次の知事がどのような支持層を代表して選ばれるかは、戦後80年を経た「沖縄と本土との和解」の行方に大きな影響を与えるということである。


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