「中国化」は清末に始まった
それでは何故、中共はこれほどまでに、中共・中国の恩恵のもとでこそチベットの人々は幸せになると喧伝するのか。
もしチベットの歴史において古くから「我々は中国の一部分である」「我々の文化は中国王朝の恩恵・中国文明との関係性のもとで成り立っている」という意識が根付いているのであれば、今ことさらに中共と中国の恩恵をチベットの人々に強調する必要はないし、内外に向けてプロパガンダの祝祭を見せる必要もない。現実には全く逆で、チベットと中国の関係は近現代史を通じて余りにもいびつなものになってしまったことを中共自身が示している。
もともと漢字に拠って立つ中国文化の地と、チベット文字と仏教を中心に栄えたチベットの地は、仏教を共有することでうまく共存していた。しかも、チベット仏教を信仰する満洲・モンゴルなどの騎馬民族が当初中心だった清は、明の滅亡後に中国文化の地も取り込みつつ、当初チベット仏教と親和的であった。
しかし、このような関係性は19世紀以後変質し、やがて崩壊した。
清は欧米や日本と近代外交を始め、しかも主導権が満洲人・モンゴル人から漢人の近代エリートに移る中、第6代皇帝の乾隆帝が打ち立てた影響力の広がりを「中国 China の国家主権の範囲」と見なし始め、これを保たなければならないと考えるようになった。そして清が日清戦争や義和団事変で敗北し、弱肉強食の世界で淘汰される危機感に襲われると、一国も早く「中国 China」の中に住む人々を「中国人」として作り変え、富国強兵を進めるべきという考えが広がった。
これが近現代の中国ナショナリズムの興りであり、清末の時点でチベット人を改造し、仏教を捨てさせようとする動きが噴出した。チベットのダライ・ラマ政権がこのような横暴に対して強く反発したことは言うまでもなく(同じことが北モンゴル=現在のモンゴル国でも起こった)、清の崩壊とともに英国を頼って自立を目指し、徐々に近代国家の体裁を整え始めた。
こうして、列強に苦しめられる中で強烈なものになった近代国家の論理と、それに抵抗する中で別の近代国家を構成しようとする論理との鋭い対立が生じてしまった。
有名無実の「民族区域自治」
だからこそ中国ナショナリズムの側は、自立へと傾く人々を「分裂主義」と決めつけ、その背後で支援を提供する西側の「帝国主義」「外部勢力」とは妥協しないという発想を強めた。
第二次世界大戦後、英国のインドからの撤退と朝鮮戦争の勃発により、ヒマラヤの北が国際情勢の空白となると、毛沢東は後ろ盾を失ったダライ・ラマ政権に対して1951年に「十七条協定」を強要し、「チベットを英帝から解放」した。以来、中共が青海・四川などの軍閥支配から「解放」した地域も含めて、チベット高原全体が中共の独裁にさらされた。強引な集団化で既存の社会と文化が揺らぐことに反発し抵抗した人々は、50年代後半に人民解放軍によって大量殺戮され(中華人民共和国史上最大の内戦)、59年には混乱の中で、ダライ・ラマ14世ほか多くのチベット人が亡命を余儀なくされた。
そこで毛沢東は、混乱の原因を「時代遅れで残酷なチベットの封建農奴制」に帰し、仏教中心の社会を全面的に破却しようとする中で、ダライ・ラマ政権の範囲を65年にチベット自治区と改めた。
