中共流の「民族区域自治」を一般的な地方自治と受け取ってはならない。中共の支配における大原則は、党と国家による徹底的な中央集権である。ただ、少数民族地域の(マルクス主義的解釈による)発展段階は「先進的」漢人地域と異なるため、少数民族地域については若干の政策変更を認めたうえで、少数民族を統治に「参加」させるという枠組みに過ぎない。「自治区」「自治州」と称しながら、あらゆる事柄について最終的な決定権を持っているのは中共中央であり、その代弁者が党幹部(とりわけ漢人)である。
当時、ダライ・ラマに次ぐチベット仏教の指導者であるパンチェン・ラマ10世は、先代が民国政府と近い関係だったこともあってインドに逃れず、中共の支配下にとどまったが、このような統治は平等と協力を尊ぶ社会主義思想とはほど遠いと「七万言上書」で痛烈に批判した(中華人民共和国史上最も鮮烈な中共批判の書)。これを毛沢東から反革命と断罪され、文化大革命の激しい批判闘争や投獄の憂き目にあった。
パンチェン・ラマ10世は改革・開放が始まると、北京とチベットをつなぐ役割が期待されたが、89年に突然心臓疾患で死去するまで「チベットが新中国で失ったものは得たものよりも大きい」という考えであった。
六四事件後の愛国主義蔓延と抑圧強化
改革・開放当初の中共総書記となった胡耀邦氏は、チベット政策・少数民族政策をめぐって中共の指導という一点は手放さなかったものの、中国全体が毛沢東時代の混乱で疲弊し、とりわけチベットは悲惨な状況であったため、少数民族の社会と文化を復興することに全面協力するという姿勢を示し、ダライ・ラマ側との対話を模索したこともあった。この結果、80年代の中国の少数民族政策と少数民族地域は、当時の中国の言論界と同じく相対的な「自由」を得て活気づいた。
このような状況が暗転したのが、89年の六四天安門事件と、それに先立つ89年3月のチベット独立運動鎮圧(ラサ戒厳令)であった。中共(とりわけ鄧小平氏)は、西側がもたらす自由・民主によってソ連・東欧が崩壊したのと同じような「和平演変(平和的体制転換)」が中国でも生じれば、発展が先送りになり永遠に立ち後れたままになるという危機感を深めた。そこで90年代半ば以後、「中共があるからこそ新中国があり、富強を実現しつつある。中共を愛することこそ中国を愛することである」という愛国主義教育が強まった。
しかも90年代、チベットに関してはパンチェン・ラマ10世の生まれ変わりを探す問題が生じた。中共は、「乾隆帝が公正な活仏選びのために定めたくじ引きをすることこそ、清朝から継承した中国のチベットに対する国家主権のあらわれ」という宗教の政治利用にこだわり、中共主導で選んだ活仏を「愛国の宣伝塔」として教育し活用しようとした。
しかしチベット仏教の側からみれば、仏教を弾圧した中共政権の主宰のもとで活仏を選ぶ道理はない。そこで、ダライ・ラマ14世とチベット現地が連絡をとりあって、95年にチューキ・ニマ少年をパンチェン・ラマ11世と指名したが、直後にチューキ・ニマ少年は幽閉されて失踪し、以来「世界最年少の政治犯」とされて今日に至る。
そして中共は、ダライ・ラマ14世を「分裂主義者」として批判することをチベットにおける愛国主義教育の中心に据え、ダライ・ラマ14世やチベット仏教ではなく、急速な発展を始めた中国経済そのものがチベットを救い幸福をもたらすという宣伝を強めた。
もちろん、チベットの人々がこのような考えに共鳴できるはずもなく、2008年には大規模な独立運動が起こったことは記憶に新しい。また翌09年には新疆ウルムチでの衝突も発生し、中共は「経済発展こそが少数民族を救い、中華民族意識の共有につながる」という言説だけで十分なのかという疑念にとらわれるようになった。
そこで習近平政権は、そもそもチベットをはじめ少数民族が「中華民族の団結」と関係ない独自・個別の民族や宗教の語りをすること自体が「分裂主義」や「宗教極端主義」の温床なのだとみなした。
