米国内の「揺り戻し」に
日本が得られる示唆
こうした世界の潮流を見て、日本でも「日本人ファースト」を選択するのがいいのではないか、という考え方に支持が集まり始めているようだ。これまで国際政治でも国内政策でも米国のフォロワーであることが多かった日本で、米国がそうならば日本も、という流れができるのも理解はできる。しかし、現在の米国の政策転換のフォロワーになるのは、日本にとっては極めて危うい選択である。理由は次の二点だ。
まず第一に、米国でのリベラルな価値観に対する揺り戻しは、日本とはかなり異なった出発点から起こっていることである。トランプ2.0以前の米国では、メディアや大学、法曹界などを中心に、エリート社会で幅広く「人権」や「多様性」などリベラルな価値観が共有されており、異議申し立てを認めない「キャンセル・カルチャー」と呼ばれる社会の雰囲気が存在した。
それはもちろんそれまで虐げられてきたマイノリティー集団の権利を認め、性別や人種による差別をなくすという崇高な理想のもとに展開されてきたが、この時期、政治的イデオロギーの振り子が左側に振れすぎていたことは否定できない。この左派の行き過ぎに対して、保守派主導で右側に揺り戻しが来ているのが米国の現状だ。
日本でも、一定のエリート層の間で進歩的な人権や多様性に関する言説が見られることは事実だが、まだまだ米国ほど大きく左に振れているとは思えない。
同性婚が合法化され、トランスジェンダーの選手が女子競技に出場することが珍しくない米国と、女性のリーダーがようやく散見されるようになったものの、LGBTQの権利はまだ幅広く認められていない日本。マイノリティーの優遇措置が最近までは広く認められ、入国書類を持たない移民が多くのセクターで労働力を担ってきた米国と、ほんの一握りの外国人の不法滞在が大きく取り沙汰されている日本。
まだ振り子が米国ほど左側に振れていない日本で、右側への大きな揺り戻しの必要性は見えない。むしろ、まだマイノリティーの権利拡張の余地がある日本は、その持続的・漸進的な人権政策をさらに進めていくことで、一つのモデルを世界に提示できるかもしれない。
欧米では拙速なプロセスがバックラッシュを招き、ポピュリズムの台頭と社会の分断の原因となった。
一方で、これまで度々海外から批判されてきた日本での慎重な権利拡張への歩みは、民主主義の安定をもたらしたとして見直されつつある。国際人権の世界でも、欧米的な価値観の世界中への押し付けではなく、それぞれの社会に馴染むような人権規範の土着化(vernacularization)の重要性が長らく指摘されている。
これは、それぞれの国で自国の歴史と文化に照らし合わせて、受け入れられやすい形で普遍的な人権の普及を進めていくべきという考えである。社会の多くの分野で漸進的変化が好まれる日本では、女性の権利などに関しても、慎重にゆっくりと伝統的価値観と擦り合わせながら進めていく傾向があった。欧米の価値観を共有しないアジアやアフリカ、中東などでは、この日本的なアプローチの方が受け入れられやすい。そして、揺り戻しに苦しむ欧米諸国も、日本の「知恵」から学ぶべき点があるかもしれない。
ただし、このアプローチが人権の実践を確実に前に進めるものであることが重要である。なぜ伝統的な家族の在り方を踏まえた女性の社会進出のあり方が、欧米的なジェンダー平等のモデルより日本に適しているのか、少数の外国人を丁寧に受け入れることで、いかに彼らが日本社会に溶け込むことに成功しているか、などの実例を積み上げて、持続的、漸進的な取り組みが女性や外国人の生活向上をもたらすことを証明しなければならない。

