西山がたどった再出発と
〝監督〟竹下さんの選択
この成り行きには、二人の人物が大きく関与していた。その一人が、竹下さんのメンター的な役割を果たした在間圭祐さん(42歳)である。
「せっかく若い人が来てきてくれたので、辞めてほしくなかった。仕事を好きになってほしかったんです」
在間さんはその一心で竹下さんへの声掛けを怠らず、オープンで柔らかな雰囲気づくりに腐心した。この姿勢が、結果として西山の社風を大きく変革する力になっていくのだが、なぜ在間さんは、そこまでして一バイト学生に執着したのか。
「強面でめちゃくちゃ怖い、頑固職人気質の人がいたんです」
この頑固職人こそ第二の関与者であり、在間さんの上司であった。
「一度はやり方を教えてくれますが、二度目は聞けません。当時の弊社には作業標準書もなかったので、完全に『仕事は見て覚えろ』の世界。技術を継承するのが困難でした」
頑固職人は製造の要を握るだけでなく、営業にも権勢をふるった。
「営業が新しい仕事を取ってきても、やる、やらへんはその方が決めていたこともあり、当時は30種類ほどの製品しか作れなかったのです」
毎日、仕事に行きたくなくて仕方のなかった在間さんは、全力で竹下さんに優しく丁寧に接した。その甲斐あって、竹下さんはゴム成型の面白さにはまり、仕事に熱中するようになっていったのである。
13年、竹下さんの正式入社と引き換えのように、頑固職人は定年退職していった。この年は在間さんの願いが成就した年であると同時に、現在の西山のオープンで風通しのいい社風の出発点になった年であった。
最も大きく変わったのは「技術を継承する方法」だろう。欠席裁判になってしまうが、技術の独占と高圧的な態度によって職場に君臨していた頑固職人は、おそらく、自分の腕を磨くこと以外に関心がなかった。
一方、在間チルドレンである竹下さんは、それとは180度異なる意識で職場の後輩たちに接している。
「あかん時は、なんであかんのか、必ず意味を伝えて納得してもらうようにしています。そうやって基本を教えたら、次は信頼して任せる。技術の継承で一番大切なのは、自分で考えてやってもらうことなんです」
在間さんが補足する。
「いまや、職人気質などという時代ではないので、情報をオープンにして共有し、誰もが同じ作業をできるようにすることが大切なのです」
竹下さんがいま、最も面白いと感じているのが新規の生産を始める際の「初期流動」である。
「成型の立ち上げの条件出しをして、作業標準書を作って、誰でもできるようにする。分かりやすく言えば、どうやって作るか、作り方を決めてみんなに伝えるわけです」
ひょっとするとこの仕事、野球の監督に似ているかもしれない。初めて対戦する相手を分析して、こうすれば勝てると采配を振る。
竹下さんにとって、会社の同僚とはどんな存在だろうか?
「チームです。信頼で結ばれた、協力し合う仲間です。西山の社員は他者に無関心ではない。一人ではできないモノが、みんなが関わった結果できた時が一番うれしいんです」
企画営業部の赤井英己さん(44歳)が言う。
「うちには在間と竹下がいるので、公差(許される誤差の範囲)の厳しい新規の仕事を受注できるんです。かつては30種類しか作れませんでしたけれど、いまでは400種類の製品を作れるようになりました」
