東京都墨田区にある浜野製作所で謎の人物に出会った。内田博也さん(32歳)、同社の設計開発担当である。
この、何もかもが行き詰まり閉塞感に満ちた時代に、内田さんはものすごく生き生きしている。それも大きな謎なのだが、差し当たっての謎は通勤に使っているリュックの中身。ベルトレンチ、ラジオペンチ、スパナ、ヤスリ、ドライバー、水平器などなど。いったい何のために、日々、大量の工具を持ち歩いているのか。
「もし、自転車が壊れて立ち往生している人がいたら、応急修理ができるじゃないですか。道具がなかったらどうにもならないでしょう」
どうして、自分が直さなければいけないと思うのか。使命感?
「修理をすると、こういう環境や使用状況によってこんな故障が起こるんだということが分かります。世の中、学ぶことが無限にあるんですよ」
第二の謎は、なぜ内田さんが浜野製作所に在籍しているかである。
内田さんは、広島にある呉工業高等専門学校の専攻科を卒業している。本科を卒業後、高度な技術教育を行う場所だ。一方、浜野製作所は社員48人の中小企業。高専卒は大企業から引っ張りだこだから、望めば大企業に就職できたはずである。
「同級生はみんな一流メーカーに就職しました。でも、自分はインターンシップで来て以来、浜野一択です」
謎は深まるばかりだが、代表取締役会長CEO(最高経営責任者)・浜野慶一さん(62歳)の話を聞くうちに、おぼろげながら内田さんと浜野製作所の縁が見えてきた。
浜野製作所の原点は、1968年に慶一さんの父が創業した金型メーカーにある。1階が工場で2階が住居、床は油まみれという町工場の典型。やがてプレス加工による量産も手がけるようになったが、量産品の下請け仕事は極端に利が薄かった。
93年、父の急死で会社を継ぐことになったが、どん底の日々が続いた。取引先はわずかに4社。社員の採用もままならず、2000年にはもらい火で工場兼住居が全焼するという災難にも見舞われた。
廃業の瀬戸際で慶一さんを支えたのは、父が遺したひと言だった。
「少量多品種生産は国内に残る」
大量生産から少量多品種生産に舵を切り、単価の高い試作品やプロトタイプの製作を受注するようになると、徐々に顧客への企画提案、設計、開発機能を強化。いまやロボット、半導体、宇宙から防衛産業まで、幅広い業界に顧客を抱える、国内屈指の精密板金・精密機械加工メーカーとなったのである。
